2014年1月9日木曜日

奥泉光「グランド・ミステリー」:壮大なるイロニーの物語

「グランド・ミステリー」は奥泉光氏の大長編ミステリで、1998年発表。2001年に上下巻で文庫化され、2013年に新装版として、今度は一冊本として刊行された。
新装版を書店で見かけて購入したが、なにしろ900ページ以上あるし、クワコー以降の読みやすい文体ではなく、これこそ奥泉という、論旨は明快だが一文一文が非常に長く技巧的な文体で構築されていて、これを飛ばし読みしては勿体なく思い、ゆっくりと時間をかけて読むわけで、結局トータル一か月ちかく読了までかかってしまった。

グランド・ミステリー (角川文庫)
奥泉 光
角川書店 (2013-09-25)
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あまりにも複層的で多義的なこの小説を読み解くにあたって、ひとつの視点をまず設定しておきたい。
それは筆者、奥泉光自身が、いとうせいこうとの文学漫談を書籍化した「小説の聖典」で提示している「イロニー」だ。
修辞学的なイロニーを日本語で表現するのは難しいが、観客が知っている真実をドラマに登場する人物だけが知らず、登場人物たちが右往左往する様を滑稽として笑う、というような意味あい。

例えば三日後に死ぬ人間がいたとして、本人はそのことを知らないが、神様がいてそれを知っているとする。その時、その人が健康のために禁煙しようとしていたら、その姿は神の視点から見た時、非常に皮肉なものに映るだろう。
つまり二重化した視線で世界が観察されるとき「イロニー」は発動する。

そのような視点から、この大長編「グランド・ミステリー」を読み直すと、「時間をやり直す」というアイディアが背骨を支える物語の構造上、随所でイロニーが発動しまくっている。

戦争という特殊な社会環境下で、民衆がコロコロとその意見を変えていく様子は、さながら今の日本でリアルタイムに進行している事態を、過去の奥泉氏がイロニっているようにも思える。
人の話す「思想」めいたものなど、思っているほどには経験に裏打ちされていないし、だから行動だって、実際にはそれほど深い意味は無いのだと。

宗教も、信仰の源泉に近づけば近づくほど人為的で、むしろ時代性を伴って解釈された「人の」言葉こそが本質的に見えるのもイロニーだなあ、と思う。
終盤弁護士によって語られる「隣人」像、すなわち
「(隣人とは)私とは別の者、等しくない者、根源的に対立をはらんだ者であり、であるが故に、この世界を豊かで光輝ある世界に変えうる存在なのです」
という言葉には、確かにキリスト教的な教義のエッセンスを感じさせながら、ではなぜあのユダヤ教をルーツに持つ一神教兄弟は、あれほどまでに他の宗教に対して攻撃的なのかに思いをいたさないわけにはいかない。

極めつけは、物語中ある特殊能力から、結果的に一種の教祖的存在に祀り上げられてしまう人物の哲学観に見えるイロニーである。
彼はかつての同級生にこう語る。
「たとえば神が世界を創造し、全能である以上、宇宙のあらゆる出来事は神の意志だと考えてみる。そうすると偶然というものは存在しなくなる。(中略)何もかもが必然であり、神の栄光を輝かせるべき出来事である。(中略)ところが困ったことには、神にそのような絶対性を与えれば与えるほど神なるものの内容が空虚になってしまう。神を神と呼ぶ必要が、それこそ必然性がなくなってしまう。つまりどうやら哲学というやつには完全性を求めていくほど不完全になっていく性質があるらしいんだな。哲学だけじゃない。知識は一般に、意味を求めれば無意味を生じ、合理性を求めれば非合理が生まれる。(中略)意識だって同じさ。つまり正気になろうとすればするほど狂ってしまうわけさ。もしおれが狂っているのだとしたら、それはおれが正気であるのが主な原因だ」

このような今立っている大地そのものを疑わせるようなイロニーの奔流に、この物語は彩られて、読者を混乱と文学的愉悦に巻き込みながら滔々と進んでいく。
そして辿り着いたエピローグに、奥泉氏はなんとも平和で平凡な、しかしそれが幾重にも張り巡らされた時間と因果の陥穽を乗り越えて得られたものだけに輝かしい、そんな日常を描いてみせる。
尊いものだなあ、と思う。

非日常の英雄的行動に送る喝采は、自らの非英雄性ゆえである。
この物語が真珠湾攻撃での特攻兵の出撃シーンに始まり、平凡な日常の回復に終わるのは、この平和な日常を生きる我々の、平穏さを守り抜く戦いこそが過酷で、一義的な情熱を必要とする英雄的な戦いなのだと筆者が信じているからなのだ。
僕もそう思う。

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