2012年「このミス」国内編のグランプリ作、ジェノサイドである。
新味があるとは言えないがスケールの大きなアイディアを惜しげなくつぎ込んで、構成もまあ破綻してはいないと思う。
ただしこの小説には、どうしても心ごと預けるような共感を抱きながら読むことが出来ないようなところがある。
それはやはり「いざとなったらいつでも殺せるんだよ」という絶対的な力を、権力へのアンチパワーとして対置してしまったところにあるのではないか。
誰だって、いつでも自分を殺せるような力をもった存在を愛でたりはしないだろう。
花を美しいと思えるのは、いつでもそれを手折れるからだ。
だから、そういう力を持った超人類が、愚かな権力者が相手であろうと、あっさりと殺してしまったり、こともなく赦してしまったりする構図に、やはりどこまで行っても共感することは出来ないのである。
その不共感の上に築かれた物語構造ゆえに、読者は、自分と異なる価値観を見つけた時に過剰反応してしまう。
Amazonのレビューがさながらナショナリズムのショーケースのようになっているのはそのせいだ。
別に誰がどう読もうとかまわないわけだが、レビューの中に散見される「著者の思想や歴史観」という言葉だけはどうもいただけない。
小説に書かれた以上、それは登場人物の思想なのであり、その先に著者の姿を探す読み方は文学を読むときの一番基本的な禁じ手なのだ。
もちろん著者の持つ思想や歴史観は作品に大きな影響を与える。
しかし同時にそれは「読まれる」ことによって読者による介在性に常に晒されている。
つまりそれが「言葉」と「読者」の間にある受容空間という架空の「現実」である。
この架空の現実を、著者を取り巻くリアルな「現実」と混同してしまうのは明らかな錯覚であり、著者が一定の技術的配慮によって、そう「みえるように」構築した小説世界に分け入っていくための道を閉ざしてしまうものである。
冒頭に申し上げた「絶対的な力」の置きどころに関する問題が、読者を間違った読み方に導いたのだとすれば、それがこの小説に潜んだ欠陥だと僕は思う。
このミス国内編の2006年のグランプリ「容疑者X」は、ミステリ界にその後長く続く「容疑者Xは本格か」論争を巻き起こした。
そして2012年のグランプリである本作にも文学のありように関わる傷を抱えている。
本というメディアが「売れてから読まれる」ものである以上、この事態は、売り手の読む力が問われているのだ、と考えるべきだと思うのだがどうだろうか。
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