2014年1月20日月曜日

「直観を磨くもの: 小林秀雄対話集」(3)湯川秀樹編〜人間の進歩について

小林秀雄対話集「直感を磨くもの」収録の第三対談。
ここがおそらくこの対談集のピークか。
日本人初のノーベル賞受賞者湯川秀樹先生の登場だ。

小林は世界の湯川を前に、無学ゆえに盲蛇で愚問を発します、と前置いて、しかし科学の発展の終着に原子爆弾が破裂した、と大きなテーマも傍らに置いた。

湯川はそれに応え、科学が必ず「観測」を伴い、故に人間性と無縁ではないと指摘する。
原子や分子や、量子って言ったって、それを調べるための道具まで原子に還すわけにはいかんのだからと。
小林もそれに応え、確率論から、ラジウムの壊れ方の哲学的解釈(現代ならば、ああシュレディンガーの猫ね、で終わりなのだが、当時まだこの表現は考案されていない)、エントロピー論まで話が及んでいく。
そして二人は科学でも文学でも「主義」とか「派閥」のようなものがどれほど無意味なもので、それを考えた「人間」というものにすべて帰結していくという方向に収束していく。

そして小林から、このようなまとめの言葉が起案される。
「ある行為者の個人的な無意識の純粋な努力というものが歴史のうちに埋没していて、傍観者には見えない。その行為者がやむなく着た社会的着物だけが歴史家に見える。」

例えば、なんとか史観みたいな名前のついたものを俎に載せて議論することの無意味さを往時の知の巨人たちは喝破しているのだ。
さらに言えば、それは教育によって得られるような教養的知見ではない。

教養=カルチュアは「耕す」という意味である。栽培法を工夫して林檎の味を良くする、のが本来のカルチュアの意味で、人間に当て嵌めて現在の語義を得た。
だからそれは、人間が素の状態で持っている基本的能力を最大限伸ばしていくことが目的とされるものである。それが教育の原理だ。
歴史という人間の営みの複雑な因果律を「感じ取る」のに必要な「個」の完成に必要なものは「道徳原理」なのであって、それは「教育原理」とは別のものなのではないか。
少なくとも日本全国共通の理想に近づけていくために考案されたカリキュラムで教えられることではないだろう。(その意味で個を伸ばすための教育というのは字義的にも矛盾している)
ましてやネットに溢れる情報で何がわかるというのか。
現代の情報過多な我々が犯しがちな思考停止の罪についての、これは予言なのだろう。

そして話は、また様々に迂回しながら、小林が用意した「原子力」の問題に接近していく。
湯川博士は、
「戦争が惹き起こされて相当の数の人が死ぬといっても、それは戦争がなくても餓死する人がたくさんできるとか、そういうことが起こったら、相対的な問題となるが、原子力の時代となると、ほかのあらゆる問題より平和を永続さすことを優先的に考えなくてはならない。だからこれは絶対的な問題です」
と、やはり科学と言っても人間の問題であるとの立場を貫く。

小林はそれに応え、
「それが技術の復讐という問題だ」という。
「平和の技術はまた戦争の技術でもある。目的如何にかかわりない技術自身の力がある。目的を定めるのはぼくらの精神だ。精神とは要するに道義心だ」と続け、焦点を政治に振り向けていく。

「だから、科学の進歩が平和の問題を質的に変えてしまったという恐ろしくはっきりした思想が一つあればいいではないか。あとは平和を保つ技術、政治技術の問題だ。
民主主義だ、共産主義だとかいう曖昧模糊としたイデオロギーを掲げて争う愚かさ。
政治は人間精神の深い問題に干渉できる性質の仕事ではない。人間の物質的生活の整調だけを専ら目的とすればいい」

ああ、僕はこの言葉をここ数年、自分の裡にずっと探していたのだ。
小林の指摘を現代から見る我々は、科学がもたらしてくれるメリットの享受に忙しくて、それが進歩するほど強く「道義心」を問われるのだということに目を瞑っていたのだと気付かなければならない。

もう本当にそろそろ自分自身との大事な話を始める頃合いだ。
そう思う。

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