横光利一といえば「機械」という短編で、なぜかと言えば「あの」宮沢章夫が、読もうと思えば一時間で読めるこの「機械」という短編をなんと11年かけて読むという奇怪な試みを雑誌連載のカタチで実現した「時間のかかる読書」という奇書の存在があるからだ。
宮沢 章夫
河出書房新社
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11年の読解に堪える短編を書く作家とはどのようなものだろうか。
小林との対談の最初の話題は、横光が主張する「文学者は、科学による人間の機械化と闘争している」という論からはじまる。
まずは、新聞がこの論を横光の科学否定と報道したことを誤りであると抗議する。
三木に続いて、またも新聞を槍玉にあげている。そしてここでは疑いなくジャーナリズムの問題として書かれている。
小林の言葉で書けば、その毒は「ジャーナリズムは精神の消費面であるにもかかわらず、文化の生産面だと錯覚するところから来るのだ」ということらしい。
小林と横光のその後のやり取りから見えてくるのは、「報道」の消費財的な側面、つまり商業的なものに寄り添っていく側面と、「批評」があくまでも文化の生産面として経済的活動の論理から独立していなくてはならぬというスタンスが、どうにも曖昧になっている時代への強い苛立ちだ。
1947年に行われたこの対談から67年も経った現在を眺めてみて、どうやらお二人の懸念はもはや取り返しのつかない事態まで進行し、少なくとも活発に文学や音楽を鼓舞する「批評家」は今ぼくらの周りには見当たらない。
現在、批評家という職業はリコメンドすることが仕事なのであり、新しいムーヴメントを創りだすような役割は担わない。
何が変わったのか。
それは小林のこの言葉にヒントがあるのではないか。
「新鮮な政治が出てくれば必ず青年を動かし文学運動になる」
文章のすべての言葉から強い違和感を感じないだろうか。
僕は感じた。
新鮮な政治って何だ。
政治で青年が動くものなのか。
そして結実するのは文学運動なのか。
なんという純真な時代。
今や政治家へのキャリアパスはタレントやお笑い芸人だというのに。
そしてこの文はこう結ばれる。
「必要なのは政治技術者だよ」
今の時代、この言葉からは派閥闘争を生き抜く技術や献金を集める専門的技術のこと以外思い浮かばない。
僕らは、本当の意味での政治手腕というものを見たことがない。
おそらく取り戻すことの叶わぬその時代の感覚は、もはや理解したところでこの世界の役には立つまい。
しかし、政治に新鮮という言葉を冠することが感覚的に出来た時代に、僕は羨望の気持ちを抑えられない。
それでも諦めてしまう前にできることがあるのではないだろうか。
いずれにせよ大事なのは人間に違いない。
人間の機械化との闘争に我々はまだギリギリ破れ切ってはいないはずだ。
書籍はデジタル化され、音楽は配信されても、人は音楽を聴くためにコンサートホールに足を運ぶし、一回性の文学を体験しに劇場にも行く。
コンピュータは我々の思考を高速化はしたが、まだ僕らは友達と笑い合って酒を飲んで歌も歌える。
この対談の直後亡くなった横光利一氏がもし生きていたら、人間の心の図太さに感心して、ますます旺盛に小説を書き続けてくれたことだと思う。
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