2014年1月17日金曜日

「直観を磨くもの: 小林秀雄対話集」三木清編

2013年末に新潮文庫で刊行された小林秀雄の対談集「直観を磨くもの: 小林秀雄対話集」は何となく手元に置いておかなくてはいけない本のような気がして、買っておいた。
これも直観というものか。

直観を磨くもの: 小林秀雄対話集 (新潮文庫)
小林 秀雄
新潮社 (2013-12-24)
売り上げランキング: 1,380

2006年に会社を辞めて、個人事業者として再スタートを切ってから、同じ本から受ける読書の感慨がいちいちあまりに違うのに驚いているが、ことに小林秀雄評論から受ける印象は、「何かの役にたつのではないか」という浅ましい動機から読む時と、言葉が事物に与えていく意味を純粋に勘案していく読書で大きく違う。

掲載されている12人との対談はひとつひとつに大きな意味がある。
が対話ゆえに、それは人と人の言葉が響きあうスピードで流れて行ってしまう。
そのまま読めば言葉に込められた背景を十分に掬い取れない。
だから書評も一対談ごとにまとめておくほうがいいのかもしれない。

第一の対談は哲学者の三木清がお相手。

三木が言う。
「新聞に出ていることで自分に関することはたいてい嘘が書いてある。それだのに、人のことが出ていると誰でもそれを信ずる」

三木は新聞がいい加減だ、と言いたいのではない。
自分という全人格を言葉で表すことはできないよ、と言っているのである。
記者の視点から、読者に伝えたい社会の様相を表象させるために取り出された一面。それが記事だ。
だから本人がとらえている全人的で複雑な真相とはもちろん違うのだ。

だが問題は、多くの読者が、そういった全人的で複雑な真相を自分自身も抱えているということに気づいていない、というところにあるのではないか、と指摘しているのである。
それでわかったつもりになって、一面と一面の不完全な論争がはじまり、うすっぺらな結論に達する風潮に三木はうんざりしていたのだと思う。

こういう内実のない教養主義に対する批判は、戦中の頃にも指摘されていたのだな。
マスコミやネットの情報を自分の考えと思い込み、体験から発しない想像の言葉が言葉だけで拡散していく風潮を見れば、世界はちっとも変わっていないのだ。

そして対談は、福沢諭吉の言う、学問が社会に揉まれることの重要性に言及し、論理だけに溺れる弁証法を全否定し、道元の豪さを再評価し、言語をおろそかにする傾向にあった哲学を批判していく。

「学問が社会に揉まれる」
編集者は、この一言を現代の停滞しきった日本に放り込みたくてこの文庫を編んだのではないか。

政治学は、未だに諸外国の優れた政治制度を日本に導入しようと躍起になるばかりで、この独自の文化を持つ国の政治を正しい道に導けずにいる。
原子力の脅威による傷を二度にわたってその身に刻んだ我が国の科学は、やはり新しいエネルギーシステムの在り様を構想できずにいる。
経済学は、人の欲望の因業深さを読み切れず、占いの域を出ない。
そしてそれらのすべての基盤となるべき哲学は、ヴィトゲンシュタインにぶっ壊されて、社会学のようなものにカタチを変えて、教養主義的議論の道具に成り果てている。
(本稿もその一端そのものだ!)

対談の最後、小林から三木に、最近のあなたの文章も弁証法的なレトリックに終始する側面があるのではないか、という厳しい指摘があり、それに対して三木は堂々と
「気付いている。そしてこれから大いに言葉を尽くしていきたい」
と決意表明を行うのだ。

しかし残念ながらこの対談の後、三木は治安維持法によって投獄され、まもなく亡くなってしまう。

今の日本に小林も三木もいない。
しかし言葉は残された。
そして現代に生きる我々は、その社会の中に息づく言葉を発する術を持っている。
充分な教育も受けているはずだ。

よくよく考えなくてはならない。
自分が働いて得ているものの意味を。

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