2014年1月7日火曜日

正常進化の果てにあったればこそ時代の異端となった奇跡の一枚~ジャコ・パストリアスの肖像

少年時代にスーパーカー・ブームの洗礼を受けたものとして、給料をもらう身分になったら自分の自動車はぜひ買おうと思っていた。だから大学卒業間近、4年生の冬に卒論を書きながら自動車教習所に通った。
不器用でずいぶん苦労したが、なんとか免許がとれたので、入社して最初の連休にディーラーを廻って、中古のジェミニ・ハンドリング・バイ・ロータスを買った。

川崎の向ヶ丘遊園にあった会社の寮に駐車場は無く、歩いて15分もかかるところに駐車場を借りた。
先輩に、車がないと駐車場まで行けないな、とからかわれたが気にならなかった。
酒を飲まずに帰れた日は、どんなに遅くても多摩川沿いの道をドライブした。

夜景がきれいなそのルートには、フュージョンが似合うような気がした。あまり好きなタイプの音楽じゃなかったのに、どうしてそう思ったのかはわからない。
それで、当時流行っていたケニー・Gとかデヴィッド・サンボーン、大学生の頃にお付き合いしていた人が好きだったジョー・サンプルなんかを買い込んで車に積んだ。
想像通り、罪も毒もないそのサウンドは夜更けのドライブによくマッチした。
でも罪も毒もないその音楽を、自分の部屋で流したいとは思わなかった。
フュージョンって、そういう音楽だと思っていた。
このアルバムを聴くまでは。

それは「ジャコ・パストリアスの肖像」という、不世出の天才ベーシストのデビュー・ソロ・アルバム。東京に出たての頃、日曜になると通っていた渋谷のシスコでジャケ買いしたものだ。

ベースという楽器を弾いたことがある人なら、一曲目の異常に粒立ちの揃った音像に驚くだろう。また、クラシックに心得がある人なら、コンガとベースのみで構成されたその曲に、後期ロマン派あたりの実験的な小品を思い浮かべるかもしれない。

正直に言えば、二曲目のサム&デイブが歌っている「カム・オン、カム・オーヴァー」が無かったら、あんなに何度も聴かなかったかもしれない。
でも幸い、これはアナログレコードで、この素晴らしくキャッチーな二曲目を聴くために他の楽曲も何度も聴くことになり、何度も聴けばこの奥深い音楽に心が囚われてしまわないはずがないのだ。
当時持っていたケンウッドのコンパクトで安価なプレーヤーにはオートリピート機能もついていたしね。

そこには、僕がフュージョンらしい音だと思い込んでいた、軽い音で単調に刻まれるリズムも、白玉(全音符のことです)で引っ張られるキーボードの、それでいてテンションコード満載のバッキングも、わかりやすく泣けそうな管楽器のメロディもなかった。

大人数のストリングスによって奏でられる曲はクラシックの要素を極端に排除して、むしろR&Bよりのニュアンスを表明し、小編成の曲にはピッコロをリード楽器に抜擢してフルート協奏曲のような趣を湛えている。
ジャコのベースは、時に機械のように正確に複雑なパッセージを刻むことで曲の性格を決定し、ある時はリード楽器として、まるでメセニーのように奔放に西欧的でないフレーズを奏でた。
一人の人間からこのようなヴァラエティが迸り出てくることが信じられなかった。
ジャコ・パストリアスという音楽家の懊悩の複雑さがこの音楽を生み出したのだろう。
その意味で、原題にない「肖像」の一語を付加したこの邦題は実に的確だと思う。

オーディオに心寄せていると、なぜか古い音楽が最高で、近年の音楽には良い演奏がないよねと嘆いていないと、音楽がわからない人扱いされる風潮に飲み込まれそうになって、それはもちろん僕が未熟なせいなのだが、だからこその脱オーディオ宣言以降、肩肘はらずに音楽を聴こうと思えるようになって、そんな時に真っ先に思い浮かんだのがこのレコードだった。
音楽が徐々にビッグビジネスになっていった時代に、大人の事情を一顧だにせず作られた奇跡の一枚。
ジャズの正常進化の結果生まれた究極の異端。
「ジャコ・パストリアスの肖像」は、僕らが日々重ねていく音楽体験にその都度応えてくれる新しい何かを持っていて、いつ聴いてもどこかに発見がある。
そのように向き合う価値がある音楽は、そうたくさんはないが、そんなにたくさんあっても困るのだ。「出会った」音楽と丁寧に付き合っていこうと思う。

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