「トニー滝谷の本当の名前は、本当にトニー滝谷だった」というなんとも印象的な書き出しで始まる村上春樹の短編「トニー滝谷」が映画化されていたとはうかつにも知らなかった。
この原作小説は「レキシントンの幽霊」というジャズ・レコードが主役とも言える短篇を中心に編まれた短篇集に所収されている。
映画は76分ほどの短い作品だった。
いや、これは本当に映画だったのだろうか。
村上春樹の詩情と余白と余韻にあふれる短編にスタイリッシュな動画を添えた新しいタイプのノベル、と呼ぶほうがこの作品の放つ独特の存在感に相応しい。
そんなふうに思わされるほど、この映画は全編西島秀俊による原作小説の朗読によって時間の流れを支配されている。
そして芝居は名手イッセー尾形の一人芝居という佇まい。
そこに宮沢りえという天才の輝きを宝石のようにきれいに散りばめている。
この宝石は本当に綺麗だ。
原作にある「彼女はまるで遠い世界に飛び立つ鳥が特別な風を身にまとうように、とても自然にとても優美に服をまとっていた」という形容を、まさか本当に体現するとは!
このように映画という芸術の枠組みに入りにくくなってしまうほど原作に忠実であらんとした本作だが、ラスト、原作にないエピソードが追加されている。
だから、その部分が監督市川準がこの「映画」において表現したかった部分ではないかと僕は思う。
追加されたラストエピソードには、トニー滝谷と亡くなった妻が結婚した時、花嫁に関係を精算されてしまった彼氏が登場する。
彼はトニーに「やっぱりあんた、つまんない人だ。あんたの描く絵がつまんないみたいに」と言う。
この台詞だけが日本映画のボキャブラリーで書かれている。村上春樹はこのように比喩という技法を使わない。
だから逆に言えば、この台詞によってトニー滝谷は、原作短編に描かれた「今度こそ本当にひとりぼっち」になるラストシーンから開放されたのだ。
そしてかつて妻の服で埋めつくされ、それが無くなった後には父の古いジャズレコードによって占拠された部屋に寝転んで、泣き続け、まるでかつて留置所で死刑の順番を待っていた父のように人生に絶望した。
その絶望が、妻の身代わりにしようとかつて雇った女のことを思い出させる。
その女が残された妻の服に泣いてくれたことを。
それこそがこの映画の「希望」だ。
人の生きていく力だ。
村上小説が肯定しない、悲しみの果ての幸福を描いて「村上さん、やっぱり人生にはこういうことも起こっていいんじゃないですかねえ」と語りかけているのだ。
僕はそう思う。
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