三人の男のうち、誰が殺人犯なのか、といってもミステリで言うフーダニット(Who done it?)とは根本的に違う。
物語に探偵役は不在で、そういう視点で考えさせられているのは観ている我々だけだし、それも中盤くらいでだいたい予想がついてしまう。
むしろ驚愕するのは、あまりにもあんまりな動機で、これじゃ「怒り」じゃなくて、「キレ」だろ、と思う。
しかし、そういって片付けてしまうには、このような「キレ」は、現代社会のあちこちに遍在していることに気付かされ、そうか、これこそが主題であったかと腑に落ちる。
キレる若者、という言葉をよくメディアで見かけた。
関西の芸人さんなんかがテレビで、もう腹立って血管ブチ切れるわ、のような用法で使っているのを耳にしていた記憶がある。
この血管の切れるイメージから、「怒る」=「キレる」となったものだろう。
00年代になると、モンスター・ペアレンツのような「キレる」大人、そして暴走老人などと呼称される「キレる」老人まで登場し、 世代を超えて、この国に「キレ」が流行している。
50年代の英国文学界には、「Angry Young Men」=「怒れる若者たち」という言葉があった。
既存の社会秩序に不満を持ち、古い価値観に背を向けた若者たちを指す言葉で、同時にそういう人物像を文学作品に描いた作家たちも同じ名前で呼ばれた。
ジョン・オズボーンの戯曲『怒りをこめてふりかえれ』を起源とするらしい。
こういったアティチュードは70年代のパンク・ロックのムーブメントに引き継がれた。
エルヴィス・コステロが出てきたときもこのキャッチコピーを纏っていたというから、パンクというジャンルを超えた、時代の空気のようなものになっていたのかもしれない。
今でも社会規範よりも個人の美意識を重視する行いを「ロックだねえ」などと言って、褒めたり揶揄したりするのはこのあたりに起源があるのだろう。
そしてこの文脈での「怒る」という言葉を、現代日本における「怒る」=「キレる」にストレートに代入したくない気分については、きっと皆さんにもご賛同いただけるものと思う。
どちらも自分以外が持つ価値観に対しての不寛容なわけだが、赦していないものの大きさがあまりにも違いすぎるのだ。
映画の話に戻れば、犯人が潜伏していた部屋に一面に貼られた新聞紙に書かれた怒りの対象は、どれもこれも日常にありふれた極めて個人的な行き違いだ。
それが「キレる」までに至ってしまうのは、その怒りに行き場がないからだろう。
この映画『怒り』には、現代日本に根を張ったいくつかの問題が描かれている。
法的な家族制度と同性愛の問題。
沖縄の基地をめぐる反対運動のあり方と、現地での米軍の実態。
経済格差そのものを絶望的な状況にまで変えてしまう対症療法な政策。
いずれも、長い時間をかけて作られた社会の仕組みや、どうしようもなく心に根付いてしまっている固定観念の中でにっちもさっちも行かない現実がある。
ある者は逃げるだろう。
ある者は戦えるかもしれない。
そして、ある者は「キレる」しかなかったのだ。
そしておそらくそういう者たちに、周囲からの差しのべられる手について、この映画では(おそらく原作でも)最も念入りに考察して描いていると思う。
問われているのは「信じるかどうか」だけではない。
手を差し伸べることは当事者になることだ。
当事者になる決断で、幸せを手繰り寄せた者もいる。
そして当事者になったことで人生を大きく狂わせてしまう者もいる。
でも一番悲しそうだったのは、当事者になりそこねた男だった。
この映画の核心はそこにある、と僕は思う。
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