2013年12月31日火曜日

オーディオの季節の終わり

思うところがあって、オーディオ好きの看板を下ろすことにした。
もちろん音楽を聴くことは変わらず好きだ。
それはだぶん一生変わることはないと思う。

中学への進学祝いに買ってもらったオンキヨーのシステムコンポを大学生まで使った。
会社員になって東京に出てきた時、新入社員のために用意された寮にはそれまで使っていた大きなシステムが持ち込めなかった。それでパイオニアのアンプとオンキヨーの小型ブックシェルフでCDのみのコンパクトなシステムを組んだ。パイオニアアンプは途中で壊れてデノンにバトンタッチした。
会社を辞めて、郷里に終の棲家を建て、この事業を興した時、McIntoshアンプとTANNOYスピーカーを買って、三度目のオーディオの季節を楽しんだ。
20年間僕を支えてくれたシステムの音に不満を感じたことはなかったけど、新しいシステムを組もうといろいろ調べているときは、それはそれで楽しいものだ。
オーディオとは結局のところ、音楽が空気の振動からできている、というシンプルな事実をベースに展開される科学なので、買ってからもしばらくは「わかっていく」面白さがある。

今回組んだシステムも、理解が進んでいって少しずつ改良していくポイントが見つかったし、経済的な要因もそこに絡んでシステムは徐々に完成に向かった。
今年フォノケーブルを換えたとき、一応ここまででいい、と納得がいった。

それに正直なところ僕はオーディオのことを考えるのにすっかり疲れてしまったのだ。


ここまでの過程で、僕がカフェをやっているということや、この場所が比較的高額所得者の多い地域であることも関係してか、多くのキャリアの長いオーディオ愛好者とお話する機会を得た。
ある人は実に楽しそうにご自慢のスピーカーを入手された経緯を語った。
ある人は長いキャリアの中で入手してきた多くの機材との悪戦苦闘の物語を教えてくれた。
価格や世評と無縁なそれらのストーリィは、実に示唆に富んでいて、素直に憧れた。
でもその他の多くの人は、僕のMcIntoshアンプと、タンノイのGreenwichというスピーカーを見て、口を揃えてヴィンテージの「ホンモノ」に買い換えなさいとおっしゃった。

ある人は真空管について。
ある人はスピーカーのユニットについて。
ある人はマッキントッシュというブランドそのものについて。
熱っぽい口調で、いかに僕の揃えた機材が「ニセモノ」であるかを教示してくれた。
もちろん「そんなつもりはなかった」のだと思う。
そこに悪気なんてなかったんだろうと思う。
本当に親切な気持ちから、いい音のする機材とはこういうものだと、にわかオーディオファンの僕に教えてくれたのだろう。
しかし僕にとって、自分の出している音は自分の選択そのものなのであって、それを「ニセモノ」扱いしてもいい、というマナーにはどうしても馴染めなかった。
商業用のスマイルを貼り付けてはいても心は深く傷ついていった。

そのような話を聞くたびに、中途半端にオーディオ趣味の人たちを惹きつける機器を買ってしまったことを後悔した。
仕事場に趣味を持ち込んでしまった自分の軽率さを恥じた。
そしていつの間にかオーディオについての文章を書いて、自己を擁護するための論理を捻り出しては、今度は自分が他人の音を批判するようになっていた。
最悪だ。

そんな自分が嫌で、でもここで商売をしているのだから逃げ出すわけにもいかず、僕は店からMcIntoshの真空管アンプを運び出し、それまで使っていたデノンの安いアンプをラックに置いた。
これできっと放っておいてくれる、と思ったがそうは問屋が下ろさなかった。
今度ははっきりと批判されるようになった。
音楽が好きならデノンなんか使っちゃダメだと。
一度や二度のことじゃない。
オーディオの世界でデノンの評判がこんなに悪いなんて知らなかった。
パイオニアのアンプが壊れてしまったとき、国産のプリメインアンプの中級機を徹底的に試聴して、これしかない、と思って買ったアンプは、オーディオの人たちから全否定を浴びた。
僕は心にまた新たな傷を作った上に、逃げ場まで失って途方にくれた。

しかし考えてみれば、確かにいい音の追求のためには、自分自身を客観視する態度が不可欠で、こんなことで傷ついてしまう僕には、そもそもオーディオ道に入っていく資格がなかったのだ。
僕は間違った場所に来てしまったことにようやく気がついた。


そんなとき、偶然Coplandというあまり知名度の高くない、品の良いデザインのアンプを見つけて、音も聴かずにすがるようにこれを買った。スウェーデンのアンプだった。
これをラックに置いたとき、すうっと心が楽になって、旅が終わったんだと感じた。
誰も知らないこのアンプの音を聴きに来る人はいないだろうし、ましてや批判などされないだろう。
これでもう「音楽」を売りにした喫茶店と誤解されなくて済む。
もう「いい音」の話なんてしないで済むんだ、と。

しかし結果は逆だった。
「ほうほう珍しいアンプをお買いになったんですね。でもこういうアンプは・・・」
まるで迷路に入り込んでしまったような気分が表情に出てしまう前に、僕はまた慌てて笑顔を貼り付けた。


迷路から出られない理由はもちろん自分にある。
曖昧な態度をとってきたことを本当に申し訳なく思う。
McIntoshアンプを店から運び出した時、僕は真空管が壊れちゃって、と言い訳をした。
あの時、そのような言い訳をするべきでなかった。この場所が自分の居るべき場所でないと気付いた時に、潔く立ち去っておくべきだったのだ。

それに、まだ僕の人生は一生懸命働く季節にある。
傍から見れば一日中カフェのカウンターに立っているだけのように見える僕は暇な時の話し相手にちょうどいいと思われているのかもしれない。
そういえば、趣味に生きていけるなんていいねえ、と言われたこともある。
誰かにわかってもらう必要はないが、組織に倚りかからず、個人の名前だけで家族を守って生きていくのに、この国はそれほど寛容じゃないんだ。
こうみえても戦ってるんだよ。
情熱と矜持と感謝を武器にね。

そういえば、僕の髪を切ってくれる美容室にはタンノイ・オートグラフという素晴らしいスピーカーがセットされているが、親しくしているオーナーに聞いても「いやあ、僕はよくわからないから」とおっしゃっていた。
うかつだった。
よくわからない人が持つスピーカーではないのである。

あれは、長いこと接客という戦場の最前線で戦ってきたオーナーの処世術だったのだ。
答えが目の前にあったのに僕は長いあいだそれに気づかずにいた。
僕ももっと早く看板を下ろしておくべきだったのだ。

遅れ馳せながらオーディオ好きの看板を今日、下ろす。
そして今夜もまた、自分のシステムの前に座り、好きな音楽をかけて、ひとりただ「いいなあ」とつぶやこう。
もとより音楽に心を動かすことに、誰の承認も必要ではないのだから。

2013年12月30日月曜日

2013年、リスナーとしての自分を振り返る

2013年は、数年前に出たイザベル・ファウストのバッハ無伴奏ヴァイオリンの続編がやっと出たよ、というニュースから始まった。
相変わらず過度な演奏者の思い入れを排除した精妙なヴァイオリンが素晴らしく、聞き惚れた。

クラシックでは、今年マーラーを聴いてみようかとテンシュテットの交響曲全集を買った。

未だ、一番、五番以外は全体像が掴めていないが、別に焦ることはない。どれを聴いていいかわからないから全集を買ったまでのことで、まだその音楽を聴く時期が来ていないだけなのである。
目標を立てて攻略したりする必要はない。
そんなことふうに心の準備ができていないうちに聴いて、誤った先入観を持つより、何かのきっかけで、お、これ聴いてみたい、そういえば以前全集を買ってあったな、で聴いたほうが得られるものが大きい。

最近も、モーツァルトの音楽がまだよくわからなかった時期に買ったボックスものに入っていたヴァイオリン協奏曲に、とあるきっかけで強い感銘を受けたことがあった。
買ったんだから全部聴かなきゃ、なんて修行僧のようなことはしなくていいのである。


2013年、ジャズの方では北欧ジャズとの出会いが大きかった。
先輩に教えてもらったベント・エゲルブラダがあまりに良かったので、有名なエスビョン・スベンソン・トリオを聴いてみて、本当にびっくりしてしまった。来年もこれは引き続き追いかけていくテーマだと思う。

しかし今年はついにエルヴィス・コステロの新譜を見送ってしまった・・
多作なアーティストについていくエネルギーがなくなってきたようです。
ディランもクラプトンも今年の新作は買ったが、次はどうしよう、と思っているところ。

逆に寡作で久しぶりに出たアーティストの作品には今年感心した作品が多かった。
まずは、なんといってもデヴィッド・ボウイの新作!
これは本当にすごかった。
そして最近またリリースペースが上がってきているが、ボズ・スキャッグス。
これも本当にいいアルバム。
2013年はこの2枚がダブル・クラウン。同着一位。

ボウイの方が、歴史に残る名盤っぽい風格を宿しているが、ボズのあのリラックスしたムードでありながら心に確実に沁みていく感じは、他の誰にもできない音楽的到達だと思う。

2013年12月29日日曜日

増え続けるCDにこれ以上スペースを割けないので、コクヨの「メディアパス」を導入してみたよ

ウチではパイン材のCDラックを使っている。
20年ほど前に購入したもので、ひとつに670枚ほどの収納力がある。
それがふたつあるので、1300枚超のCDを収納できる。


7年前に会社を辞めるまで、CDはひとつのラックに収まっていた。が、どうせ増えるものだし、その時に同じものがないと困るでしょう、という我が賢妻の英断で二つ買っておいたのだ。
彼女の予言は購入してから13年目に成就し、札幌に引っ越してきてから二つ目のラックを組み立てた。

しかし会社をやめてからジャズやクラシックを聴くようになったこともあり、急速にCDは増え、二つ目のラックは一年でほぼ満杯となり、徐々に聴かなくなっていった日本のロックの多くを別の収納ケースに収めて棚に入れるようになった。

しかしそのような対策は長く効果を維持しない。
キャパシティを超えてもCDは増え続け、やむなくジャズ入門のためにひと通り揃えたものの、そのキャッチーなところが気に入らず、すぐに聴かなくなってしまったブルーノート系のジャズCDをまとめて店のほうに置くようにした。
お客様の中にはCDをしげしげと眺める方がいるが、「ブルーノート好きなんですか?」などと精神衛生上よろしくない質問をされて、しばしば閉口することとなった。

古いロックのコレクターとしても知られるGreat3の片寄氏は、膨大なCDコレクションの収納に苦慮し、プラスティックのケース(ジュエルケースといいます)をソフトパックに移し替えてコンパクトにする手法をとっていると雑誌で見て、いつかやってみたいと思っていたが、下北沢のレコード店が作ったというそのソフトパックは北海道ではなかなか入手困難で躊躇していた。

しかし、コクヨでもメディアパスという類似商品を出しているのを最近知って、こちらは入手が容易なので、今回導入を決めた。

とりあえず、収納箱に入っている邦楽ロックCD150枚を移し替えることに。
しかし二枚組や紙ジャケ、変形ジャケットなどが意外と多く、実際には100枚程度の作業となった。
片寄さんは記事で、何千枚もあるCDをすべて移して指紋が擦り切れたと言っていたが、100枚程度でも確かにけっこう大変な作業だ。
でも効果は絶大。

四箱に入っていたこれが、

一箱に収まった!


パッケージに1/2以下になると書いてあるが、実感値で1/3くらいになった感じがある。

こちらがメディアパスに収納したコリン・ブランストーンの「一年間」というアルバム。
左端に見えているアルバムタイトルは帯を利用して見せている。


二つ折りになっている中面を開けると真ん中に帯を挟むポケットがついていて、ここに帯を入れると販売時「背」になっている部分がタイトル欄として機能するようになっている。帯がないものは裏ジャケの背部分が見えるようになる。
よくできている。

結局、余裕のできた収納箱にラックからまたCDを移し、店に置いてブルーノートが好きな人という誤解を招いてきたCDたちを部屋のラックに救出して、なお一棚の半分くらいの空きスペースが確保できた。

ラック内のCDもこのようにソフトパックに移してしまえば、3倍近い容量が確保できるわけで、心強い。

2013年12月18日水曜日

松崎有理「あがり」:自由をめぐる現代のルサンチマンの物語

久しぶりに新人さんの作品に天賦の才というやつを感じた。
松崎有理さんの「あがり」という作品。

東京創元社が始めた創元SF賞の第一回大賞受賞作である。
東北大学理学部卒の女性著者ゆえ「理系女子」の冠が付けられることが多いが、むろんこんな冠は全く不要の堂々たる「文芸作品」なのだ。

専攻された学問的専門性を遠慮なくぶちこんで濃密で確固とした作品世界を構築しているが、こういう作風にありがちな上から目線に鼻白むことがない。
抑制の効いた文体と、スパイスのように絶妙にあしらわれた自虐趣味が全体のバランスをとっている。
それも、よく言われる「計算された」構成とか文体というようなものではない。ここにはそういうあざとさは感じられない。

そしてこの6篇の短編からなる「北の街にある」大学の物語は、えもいわれぬ諦念感に満ちている。
自分の大学生時代を振り返ってみれば、あの頃「大学」という場所には自由という言葉がよく似合った。
経済的合理性の外側にある場所。
その中では交通法規さえも遵守に及ばず、免許取得のために大学農場横の道で運転の練習をするものまでいた。

それが今では、国立大学は独立行政法人になり採算性を求められるようになり、教員の雇用期間の問題が労基法ベースで語られている。
学問の府であるはずの大学にも卒業生の就職率を問う風潮が蔓延し、未だ国立理系ではそうであるようにその研究室が社会から評価されることで就職を担保することが王道であるはずなのに、面接の練習とか講演会を開くことで職員や学生をその本分から遠ざけている。
いつの間にこんな世界に僕らは来てしまったのだろう。

作者松崎有理さんは、この短編集の世界に「3年に一本論文を書かないと教職を剥奪される」という、あながち非現実的でもない法律を導入することで、この国にただよう現実の閉塞感を表現してみせた。

なぜ学問の府の自由は守られなかったのか。
それは、グローバリズムの猛威の中で厳しい環境に置かれ続けた経済の世界が、おい、あのアカデミーのやつらはどうして無風の中にいるんだ。あいつらにも少し世間の厳しさを味あわせてやれよ、と無言の圧力を寄せたからだ。
これは現代の「ルサンチマン」なのだね。

そうして僕らは未来につながる基礎研究の多くを失ったし、異能が育つ環境も大きく損なった。そしてその代わりに「愛国心」とやらを教えてくれるらしい。やれやれ。

しかし、松崎有理さんの作品世界では現実より一歩先に、より厳しく管理的になった大学世界を描いているが、そこで登場人物たちは、絶望し、錯乱し、それでも小さな幸福を見つけ、ときめき、走り、精一杯思う通りに生きようとしている。
結果は必ずしも可とでない。
でもだからいい。
結果を自分で引き受けるしかないからそこに「自由」があるのだ。

大学に入って最初に読めと言われた本はエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」だった。近代社会が目指した「自由」が人間個人の尊厳の基盤であると同時に、他者の「自由」との軋轢の中で社会を壊していく要因になるという二面性を説き、その最悪の結果がナチズムへの民衆の熱狂的な支持であるとする古典的名著である。

松崎有理作品を読んで思うのは、今こそ、フロムの書いた自由と自由のぶつかり合いの世界から逃げようとするような翻弄される自分じゃなくて、もしそれが未来のために必要なら他人の自由をこそ寿ぐような自分になれたらいいのに、ということだ。
そしてこのような力を持つ「文学」を理系の視点から書き下ろした著者に心から敬意を評し、シューマンがショパンを世界に紹介するために紡いだ言葉を引用したい。
「諸君、脱帽したまえ。天才だ」


2013年12月15日日曜日

思い出のRoom335

こんなことを宣言する必要はまったくないことはわかっている。
しかし宣言しておく。

来年はフュージョンを聴く。

あまり人に言ったことはないが、David T.Walkerが大好きだ。
といってもODEレーベルから出ていた3枚と比較的最近のDream Catcherという作品しか持っていない。

しかし、これらのCDのリピート率が半端ない。
聴き始めると、その心地よさにずっと繰り返して聴いてしまう。
ODEレーベルの3枚は、なかなかCD化されず幻の名盤と化していたのが2006年に紙ジャケCD化された。
名曲揃いだし、ジョー・サンプルだし、チャック・レイニーだし、ビリー・プレストンだし、もう品薄になっているようだから3枚まとめて買っておくしかないと思う。

5年ほど前に札幌に来たことがあるのだが、クリスマス直前の繁忙期で行けなかった。
残念に思っていたが、来年2月にラリー・カールトンとの共演で札幌に来てくれるとのことで、チケットを確保した。
とても楽しみだ。

上の写真にも写っているが「夜の彷徨い」は昔愛聴していた。
でもラリー・カールトン名義のものはこれと、ロベン・フォードと共演した東京のライブ盤しか持ってない。
これを機に、多くのバンドでその腕を振るったラリー・カールトンのキャリアを追いかけてみたいと思っている。


最近、再結成したカシオペアが(カシオペア3rdというらしい)オリジナル・アルバムを発表したので聴いてみた。
キーボードは向谷実ではなく、女性キーボーディストがオルガンメインで弾いている。だからサウンドが違う。が意外と合っている。
なかなかいいですよ。

渡辺香津美もフュージョンど真ん中のアルバムを今年最後にリリースしてきた。
これはすごい!

まだ釧路にいたころ、コンサートに行ったんだ。
もうただただ弾きまくられるギターの奔流に圧倒されるばかりのステージだったけど、最後の最後、ギャンギャンにバンドが盛り上がってすべての楽器があらん限りのスピードでかき鳴らし、打ち鳴らされている中、香津美氏、ふいにステージ袖に隠れたかと思うと大きな大きなハサミを手に戻ってきた。
いったい何を・・と思っているうちに、そのハサミでギターの弦を挟んで全弦をバッチーン!!!!と切断した。
その壮絶なノイズの中、バンドは演奏を止めステージが終わった。
観客はその過激な演出に大盛り上がりで、その夜の様子はまさに熱狂という言葉でしか表現できないものだった。
あれから30年以上経ってるはずだけど、そのニューアルバムを聴く限り、音楽的な過激さは変わっていないように思う。
前衛に走らず、メインストリームの中でこれだけの過激さを表現できる渡辺香津美という音楽家、本当に只者ではない。



これらのアルバムを聴いていたらまた自分でもギターを弾きたくなった。
まあ、継続的にギターは弾いている。
けどちっともうまくならないんだなあ。
そういえば、昔大学の音楽サークルにいた頃、卒業生の追い出しコンサートでドラマーの先輩が急にギターを抱えてステージに出てきて、実に見事にラリー・カールトンのルーム335を弾いたんだ。
カッコ良かったな。
ルーム335、練習してみようかな。

2013年12月14日土曜日

モーツァルトのヴァイオリン協奏曲をめぐって ~ Boxに死蔵された名曲たち

モーツァルトのヴァイオリン協奏曲をお借りして聴いた。

2番から5番までの4曲を順に聴いていった。
まずは2番、3番。


盤面はこんな感じ。

普通のグラモフォンのレーベルなんでしょうか。
全体としてはコンパクトな2番の印象が良かった。
モーツァルトの管弦楽には大げさなところがなくていいなあ、と思うがこの曲は特に全体が素朴な彩りでそこが気に入った。

3番はその点少し饒舌なところがあり、構成も少し大きめな作り。
しかし、2楽章のソロ部があまりにも素晴らしい。
こういう美点があると曲全体の輝きが増す。

ところでお借りしたレコードの中には別の演奏者の3番が入っていたので、こちらを先に聴いてみる。

どうもE.M.Iレーベルから出ていたもののようなのだが、テスタメント・レーベルのシールが上から貼り付けてある。
盤の方にも・・

大きな赤いシールが貼り付けてあるのだ。
重たい立派な盤だ。

聴いてみると、こちらは高速演奏。
テンポよく飛ばしている。
ゆえに先ほど感じた饒舌さや構成の迂遠さが解消されて、いい感じ。


先ほどのグラモフォン盤と同じヴァイオリニストの演奏。
この4番には、僕がモーツァルトを苦手としていた頃に感じた端正な生硬さが色濃く出ている。ちょっと心に入ってこない感じかな。
でも短調に展開して、またすっと戻っていくとこなんかはハッとさせられた。
さすがはモーツァルト。

5番にはトルコ風、と書かれているがどのへんがそうなのかはちょっとわからない。
しかし1楽章のソロがこちらも素晴らしく、保留なしで気に入った。

2番3番5番は、どんなシチュエーションでも心くつろげる時間を提供してくれそうだし、自分でも入手してみるか、とAmazonを検索すると、EMIのオイストラフのモーツァルト協奏曲全集が見つかり、オイストラフならEMIの全レコーディングを収録したボックス・セットを持っているじゃないか、と思いあたった。

調べてみたら、当たり前だが全曲入ってる・・
買わずに済んだのは良かったが、一時期買いあさったボックスものの中にまだ耳を通していない名曲がたくさん埋もれていることに気付き、おおいに反省した次第。

でもやっぱりきっかけって大事ですね。

2013年12月11日水曜日

古い思い出のレコード盤から、素晴らしい音を引き出すものは

今日は朝からスタイル・カウンシルなんぞを聴いている。
セカンド・アルバムのアワ・フェイバリット・ショップ。


ピーター・バラカンはジョージー・フェイムでオルガンの魅力に目覚めたというが、僕にとってはなんといってもこのバンドのミック・タルボットだ。
それまではオルガンといえば、ディープ・パープルのジョン・ロードなのであり、彼のバッハ・ライクな曲を煽り立てる速いパッセージを聴いては、ロックサウンドとオルガンの相性の良さを再確認していた。

でもミック・タルボットの抑制されたシンプルなメロディの上下に自由自在に和音を載せていき、複雑な響きを構成していくオルガンプレイを聴いてからは、鍵盤楽器の自由度と奥深さに惹かれていくようになった。
このアルバムは何度も聴いたせいか、B面5曲めにきまってノイズを出す場所があり、そこも含めてこのレコードを時々無性に聴きたくなる。


そして、このような完成度の高い音楽を聴いていると、不思議と自分の深いところにあるプリミティブな音楽を愛する心が、自分の居所を取り戻そうと浮上してくる。
そんな時、僕はスティクスのこのアルバムをターンテーブルに載せる。


パラダイス・シアター。
彼らの10枚目のアルバムにあたる。
予備校で知り合った友人に録音してもらって聴いた。
勉強しながら聴いていても「かっこいいなあ」以上の感想をもたらさない、シンプルなサウンド・メイキングがいい。
デニス・デ・ヤングの伸びのある声は、しかしフレディ・マーキュリーのようには心をかき乱さず、トミー・ショウの綺麗に歪んだザ・ロックギターは、さあここで盛り上がるんだよ、と大きなジェスチャーで僕らに指し示してくれる。
ある意味での「わかりやすさ」を抽出したような音楽。

録音してもらったテープのヒスノイズごと、この音楽はあの頃の狭い寮の部屋の記憶とくっついている。

その友人が札幌を離れるとき、もうアナログはやめるんだ、と言ってすべてのレコードを置いていった。だからその想い出のレコードは今僕の手元にある。


あらためてレコードを見るとレーザー・エッチング盤と書いてある。
お、何か特殊な音響的工夫の凝らされたカッティングが施してあるのかと、よく見ると曲間にノイズが出る場合があります、と書いてある。
???と思い、レコード盤を見るとB面が、


こうなってる。
レコード盤の表面に細工をして光を当てると虹色に輝くようになっているのだ。
いや、なんともスティクスらしい仕掛けじゃないか。
この技術のためにこのアルバムは全量アメリカでカッティングしたらしい。
音質を犠牲にしてまで、このレコードという「モノ」に同じ時代を生きた記憶を埋め込もうというこの振る舞いを僕は否定しない。
このような強い属性をパッケージに組み込んでくれたおかげで、僕はこのレコードを何度も聴くのだし、その度に、寮の食堂で、風呂で、お互いの部屋で、飽きることなく音楽の話を続けたあの日々を思い出すことができる。

こうして音楽を聴いている時に、例えばカートリッジや真空管の劣化などはもちろん、この電源コードを換えたらどんな音に、なんて俗っぽいことは考えたくないものだ。

だから僕はオーディオが好きだが、機器の買い替え自体にはほとんど興味がない。
その時点で納得のいく、できるだけ後悔の少ないアンプとスピーカーを手に入れて、万が一壊れればそれを修理して使う。
そして一目惚れすれば、前の機種に断腸の思いでお別れを告げて新しいパートナーを迎える。そんなふうに生きてきた。
だが、音楽再生に関する消耗的部品を含む機器に関しては、このような愛着を持たない。だって愛ってのは消耗しちゃいけないんだよ。
消耗品は兌換性がなくちゃいけない。
だから、レコードプレーヤーとCDプレーヤーに関してはコストパフォーマンスを重視して、周期的に買い替えを行うようにしている。
だからその時に後継機種がちゃんとあるロングライフな製品を選ぶようにしている。
その意味では代理店の都合で突然入手しにくくなっちゃう海外製品も選択の埒外なのだ。

また、アナログプレーヤーに関していえば、我が家の場合酷使される傾向にある。針を換えるのに何万円とかいう機器ははじめからライフスタイルの埒外である。
ベルトの劣化を気にしながらターンテーブルも回せない。
同じ意味で中古のダイレクト・ドライブの銘機なんてのも問題外だ。
テクニクスのSL1200シリーズが生産されていない今、レコードプレーヤーは、DENONのDP-500MかDP-1300Mk-IIの二択となってしまった。

高価(といっても控えめな値段だ)な方のDP-1300Mk-IIを選ばなくてはならない理由は、キャビネットが天然木のため、大音量時のハウリングに強いことと、幅広くカートリッジを換える場合に必要なアームの高さ調整機構が備わっていることしかない。
これはどちらも我が家の音楽事情に必要ないものだ。

何度も書いていることだが、現在最も僕のライフスタイルに合致しているプレーヤーがDENON DP-500Mなのである。
以下、このようなラインナップで僕はアナログレコードを日々再生している。



そんな入門機でいいんですか、とよく言われる。
アンプが100万円なのに、プレーヤーが数万円というのはどうなんですか、と。
しかし古い思い出のレコード盤から素晴らしい音を引き出すのは、実はプレーヤーなのではなく、その時代時代をどれほど真剣に生きたか、という自分自身の想いなのだ、と最近僕は真剣に思い始めている。
これはもしかしたら、オーディオ界最悪のオカルトかもしれない。
でもさ、心の中で起きている化学反応を他人にわかってもらう必要なんてないんだよ。

2013年12月1日日曜日

映画「トニー滝谷」:「村上春樹さん、やっぱり人生にはこういうことも起こっていいんじゃないですかねえ」

「トニー滝谷の本当の名前は、本当にトニー滝谷だった」というなんとも印象的な書き出しで始まる村上春樹の短編「トニー滝谷」が映画化されていたとはうかつにも知らなかった。
この原作小説は「レキシントンの幽霊」というジャズ・レコードが主役とも言える短篇を中心に編まれた短篇集に所収されている。

映画は76分ほどの短い作品だった。
いや、これは本当に映画だったのだろうか。
村上春樹の詩情と余白と余韻にあふれる短編にスタイリッシュな動画を添えた新しいタイプのノベル、と呼ぶほうがこの作品の放つ独特の存在感に相応しい。


そんなふうに思わされるほど、この映画は全編西島秀俊による原作小説の朗読によって時間の流れを支配されている。
そして芝居は名手イッセー尾形の一人芝居という佇まい。
そこに宮沢りえという天才の輝きを宝石のようにきれいに散りばめている。


この宝石は本当に綺麗だ。
原作にある「彼女はまるで遠い世界に飛び立つ鳥が特別な風を身にまとうように、とても自然にとても優美に服をまとっていた」という形容を、まさか本当に体現するとは!


このように映画という芸術の枠組みに入りにくくなってしまうほど原作に忠実であらんとした本作だが、ラスト、原作にないエピソードが追加されている。
だから、その部分が監督市川準がこの「映画」において表現したかった部分ではないかと僕は思う。


追加されたラストエピソードには、トニー滝谷と亡くなった妻が結婚した時、花嫁に関係を精算されてしまった彼氏が登場する。

彼はトニーに「やっぱりあんた、つまんない人だ。あんたの描く絵がつまんないみたいに」と言う。
この台詞だけが日本映画のボキャブラリーで書かれている。村上春樹はこのように比喩という技法を使わない。
だから逆に言えば、この台詞によってトニー滝谷は、原作短編に描かれた「今度こそ本当にひとりぼっち」になるラストシーンから開放されたのだ。

そしてかつて妻の服で埋めつくされ、それが無くなった後には父の古いジャズレコードによって占拠された部屋に寝転んで、泣き続け、まるでかつて留置所で死刑の順番を待っていた父のように人生に絶望した。

その絶望が、妻の身代わりにしようとかつて雇った女のことを思い出させる。
その女が残された妻の服に泣いてくれたことを。

それこそがこの映画の「希望」だ。
人の生きていく力だ。

村上小説が肯定しない、悲しみの果ての幸福を描いて「村上さん、やっぱり人生にはこういうことも起こっていいんじゃないですかねえ」と語りかけているのだ。
僕はそう思う。