後に舞台化され、映画化もされた。
その映画DVDを観ました。
「悼む人」の行う、自分とは何の関わりもない人の死を悼むという行為が、その人が誰を愛し、誰に愛され、どのような行為によって感謝されていたか、ということに絞られている。
そこがこの物語のコアにある謎ですが、その理由について青年自身はうまく説明できないとしながらも、加害者への恨みのようなものを「悼み」の中に入れたくないと言っています。
死を無念と思う気持ちは、実は被害者である死者のものではなく、生者のほうにある感情だからでしょう。
死者に対する生者の振る舞いが、あくまでも生者のためのものであるという真理は、しかし生者自身には、自覚しにくいもので、その倒錯が「悼む人」をめぐる人々の戸惑いになっている。
このようなわかりにくさは、我々の意識の中に「死者はただしく祀らないと祟る」という恐怖が古い時代から引き継がれていているのに、科学万能時代の教育がそれを上書きしているため意識の前面に表出しにくいというあたりに原因があるのかもしれません。
だから、他者の死への希求に応え、愛を得るために殺すという究極の倒錯に触れた奈儀倖世(なぎ ゆきよ)だけが悼む人の真実に気付き、旅に同行することができたのでしょう。
映画では、主軸としてのその二人の旅と、死に瀕した母親の追認、世俗的な新聞記者の回心などで、悼むという行為を立体的に描いています。
はっきりとこの場面はこういう意味だと言語化しようとすると、逆に薄っぺらいものになる。
これはそういう映画だと思います。
ひとつだけはっきりと言えるのは、奈儀倖世を演じた石田ゆり子の、もう凄絶と言いたいほどの幸薄さとそれ故の美しさから目が離せない、ということでしょうか。
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