2016年6月21日火曜日

映画『悼む人』~悼むことの倒錯を体現する薄幸の人、あるいは石田ゆり子の凄絶な美について

天童荒太の直木賞受賞作「悼む人」は、他者の死を悼む青年の旅を描く物語であった。
後に舞台化され、映画化もされた。
その映画DVDを観ました。



「悼む人」の行う、自分とは何の関わりもない人の死を悼むという行為が、その人が誰を愛し、誰に愛され、どのような行為によって感謝されていたか、ということに絞られている。

そこがこの物語のコアにある謎ですが、その理由について青年自身はうまく説明できないとしながらも、加害者への恨みのようなものを「悼み」の中に入れたくないと言っています。

死を無念と思う気持ちは、実は被害者である死者のものではなく、生者のほうにある感情だからでしょう。

死者に対する生者の振る舞いが、あくまでも生者のためのものであるという真理は、しかし生者自身には、自覚しにくいもので、その倒錯が「悼む人」をめぐる人々の戸惑いになっている。

このようなわかりにくさは、我々の意識の中に「死者はただしく祀らないと祟る」という恐怖が古い時代から引き継がれていているのに、科学万能時代の教育がそれを上書きしているため意識の前面に表出しにくいというあたりに原因があるのかもしれません。

だから、他者の死への希求に応え、愛を得るために殺すという究極の倒錯に触れた奈儀倖世(なぎ ゆきよ)だけが悼む人の真実に気付き、旅に同行することができたのでしょう。

映画では、主軸としてのその二人の旅と、死に瀕した母親の追認、世俗的な新聞記者の回心などで、悼むという行為を立体的に描いています。
はっきりとこの場面はこういう意味だと言語化しようとすると、逆に薄っぺらいものになる。
これはそういう映画だと思います。

ひとつだけはっきりと言えるのは、奈儀倖世を演じた石田ゆり子の、もう凄絶と言いたいほどの幸薄さとそれ故の美しさから目が離せない、ということでしょうか。



2016年6月19日日曜日

映画『WILD SEVEN』の見どころは深田恭子の普遍の美である

クリント・イーストウッドの映画を観ようとDVDを借りたら、予告編になぜか「ワイルド7」が入っていて、そういえば望月三起也もこの間死んだんだったな、と思い出し、観てみることにした。

漫画未読の僕は、ワイルド・セブンなんだから、きっと「荒野の七人」がモデルで、そのオリジナルにあたる黒澤監督の「七人の侍」とも共通性があるんだろうと思っていたが、似ているのは「七人」というところだけだったように思う。

それでもこの映画を観てよかったと思う。
だってここには最良の深田恭子がいるからだ。
ドロンジョ様も良かったけどね。

どうして二次元系のキャラを上書きした深田恭子はこんなに魅力的なのか。
それはきっと深田恭子の美貌が、普遍の美だからなんだろうと思う。



飛葉陸大(瑛太)に強引にバスを降ろされ、その後すぐに、遅れそうだからバイトに送って行きなさいよとバイクの後ろに乗って身を寄せる。
かわいいです。



バイト先に着くと、売上に貢献しなさい、とレストランの席につかせ、ソムリエという意外な一面を見せる。
普通夢中になるよね。
で、酔っ払った飛葉と一夜を・・
メロメロですよね。


その後、彼女の意外な過去が明らかになり・・・

ともに追われる身となる。
なんてタンデムの似合うヒトなんだ・・・

最後はワイルド7の一員になるんですね。
しかしここで、深田恭子の熱演に水を差すこのだっさい衣装。
ちょっと衣装なんとかしなさいよ。
もう峰不二子でいいじゃない。
次元大介だって、荒野の七人のブリットがモデルなんだしさ。

ワイルド7の見どころについては以上になります。

付記
以前の記事「映画「ルームメイト」:物語のミスリードと映像のミスリード 」
にもほぼ同義の分析をしておりましたので、付記しておきます。

また、峰不二子のモデルとなったマリアンヌ・フェイスフルについてはこちらの記事「映画『あの胸にもういちど』〜マリアンヌの黄色いヘッドライト」に書いております。

2016年6月17日金曜日

トイラボさんの現像&データダウンロード・サーヴィスが素晴らしい

いただきもののリバーサルフィルムが数本あって、撮影したはいいが、現像の方法に迷っていた。
いつものキタムラに持っていけばやってくれるが、10日ほどかかった上に、データCDを作ってもらうためには一度全数のプリントを作る必要があるという。
総コストを考えると手軽に撮影ができない。

いろいろネットで調べてみると、現像サーヴィスがけっこうある。
そのなかの「トイラボ」さんのサーヴィスに、現像したポジをそのままスキャンして、小さいサイズのものなら無料でダウンロードできるというのを見つけた。

現像も安いし、送料も定形外料金+αで良心的だ。
さっそく申し込もうとホームページを見ると、なんとこの会社熊本の会社で先の熊本地震で小さくない被害を受けていた。
多くの機材が失われ、生活の再建もあり、現像作業に時間がかかっていると書いてあった。
これも復興支援と思い、落ち着くのを待ってフィルムを二本送ってみた。
送ったのは、札幌の西区を流れる琴似発寒川に撮影に出かけた時のもの。

月曜の朝に郵便局から送って、水曜には先方着。
木曜午前には現像が終了し、昼ごろには画像がダウンロードできるようになっていた。
充分早いと思う。

琴似発寒川の撮影には、画像比較をしてみようとコンデジLeica C-LUX 1も持っていって、何枚か同アングルで撮影したおいた。

Leica C-LUX 1

左側にNikomatのフィルム写真、右側にLeica C-LUX 1のデジカメ画像を配置して比較してみよう。




ずいぶん色が違うものだ。
左のNikomat画像の緑は鮮やかだが、少々不自然な発色ではないか、と思い窓の外を見ると、円山の森の緑もそのような色で、これはLeicaの写り方に慣れすぎたせいなのかもしれない。

画像編集ソフトでの調整についてはまったく知識がない。
当てずっぽうに弄っても、なかなか思ったような色にはならないものだ。
修行がいるな。

三段目の写真では、一眼ならではの前ボケが写り写真の奥行きを深めている。
コンデジの小さな撮像素子からは出てこない表現だと思う。

反面Leica画像の方が、水の動きまでがはっきりわかる解像度を感じるが、これはアップしたNikomat画像が小さいサイズのスキャン画像であるせいかもしれない。

これからトイラボさんから現像されたフィルムが送られてくる。
高解像度のデジタルデータを作る必要を今は感じていないが、これからのためにいろいろ調べてみようと思っている。

2016年6月5日日曜日

映画『市民ケーン』 〜 トリックスター、オーソン・ウェルズの残した偉大な遺言状

映画史上最大の傑作に挙げられることもある、オーソン・ウェルズ監督・主演の『市民ケーン』だが、映画マニアでない僕にとって、オーソン・ウェルズという名前は英語教材の吹き込みをしている過去の名優というイメージを想起させるばかりで視聴に至らなかった。
「家出のドリッピー」や「追跡」といったシドニィ・シェルダン作品をウェルズが朗読した英語教材の広告が新聞や雑誌によく載っていましたね。

だがフィルムカメラを始めて、モノクロームの面白さに気付いてから白黒時代の映画に興味が湧いて、『第三の男』とこの『市民ケーン』をレンタルしてきた。


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映画は二時間の尺を緩みなく構成して、最後まで見飽きることが無かった。

Wikipediaにこのような記述がある。
ニューヨークで作品を見たフランスの映画評論家ジャン=ポール・サルトルは「『市民ケーン』はわれわれが従うべきお手本ではない」と批判し、「(物語が)一切が終わった地点から遡って見られているため、映画固有の現在形の生が失われてしまっている」と指摘している。
しかし、この映画『市民ケーン』は、新聞王ケーンが残した「バラのつぼみ」という謎の言葉の意味を探偵役であるジャーナリストが追いかけていく推理劇である。
この構成のおかげで、「バラのつぼみ」とは何か、という物語的興味が生成されるのであり、必要不可欠な演出だったと思う。
しかもこの「バラのつぼみ」という言葉は、この映画がモデルにしている新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストが愛妾マリオン・デイヴィスをこっそりこう呼んでいた秘密の愛称で、当時の人々の噂に頻繁にのぼった符牒なのである。
だからむしろこれは、この映画の時代性を支えるコアであるともいえるものだ。
また、このような記述もある。
ジョルジュ・サドゥール(フランス語版)も作品を「ハリウッドに一夜降ったドルの大雨で生えてきた巨大なキノコ」と呼び、ここにあるのは「古いテクニックの百科事典」と述べた。前景と後景を同時に写す撮影法はリュミエール兄弟の『ラ・シオタ駅への列車の到着』で実現済みであり、非現実的なセットはジョルジュ・メリエス、素早いモンタージュや二重露光は20年代の作品、天井が写るのはエリッヒ・フォン・シュトロハイムの『グリード (1924年の映画)(英語版)』、ニュース映像の挿入はジガ・ヴェルトフを思わせるものであり、ウェルズはそれらをつぎはぎしたに過ぎない
テクニックが映画を魅力的にすることに貢献していなければ批判の対象になるだろうが、百科事典的であることは別に悪いことではないだろう。
この映画ではそれらのテクニックが、結末のわかっている伝記映画特有の退屈さを払拭する見飽きない起伏を作り出す効果をあげていて、むしろ過去に生み出されたテクニックを効果的に活用する教科書として機能していると僕には感じられた。

この映画は強大な影響力を持つメディア王を正面からおちょくった問題作であり、当然大きな妨害を受けたようで、映画館でも上映拒否があったようだし、大きな賞を受けることもなかった。
それでもこの映画が長い時間を超えて傑作と賞賛されていることを考えれば、これらの批判がいかに的外れであったかがわかるだろう。

しかしやはり現実にはトラブルメーカーは歓迎されないわけで、遂にはハリウッドでは映画を作れなくなったオーソン・ウェルズ。
資金作りに奔走し、三流映画に出演し、サントリーのCMにも出演したそうだ。
そのような資金作りの一環が僕の知っていた「英語の教材の吹き込み」で、それでもそれが彼の知名度の一部となり、結局僕はこの映画に辿り着いてこの文章を書かせている。
万事塞翁が馬である。


この映画がロングライフであることには、もうひとつの意味があると思う。
スキャンダラスなメディア王の実態を、ドキュメンタリーではなく、あくまでもフィクションとして描いたことである。
成功のためならば手段を選ばぬことは、このような物語に仕立てられてはじめて近視眼的に見えるが、渦中にいる人間にはわからない。
幸運にも、そして不幸にもそれが出来る環境が手に入ってしまえば、それを抑えることはとても難しいだろう。

しかし、そのような教訓も、抽象化された物語が長い時間を経ると、もともとの含意が人々の記憶とすれ違っていく。
だからさんざん語り尽くされたことではあれど、ここにもウィリアム・ランドルフ・ハーストという新聞王の所業を書き残しておこうと思う。


19世紀の終わり頃、キューバの独立運動を宗主国スペインが弾圧していた。
アメリカはキューバの砂糖産業に投資していたために、スペインがこれを接収してしまうことは避けたかったし、潜在的に太平洋に隠然とした存在感を持つスペインの植民地を奪い、太平洋覇権を手に入れたいという政治的思想を持つ勢力もあった。
ハーストは、この思想に共鳴していたのだろう。情報操作によってこれを後方支援した。

1897年、ハースト系の新聞に掲載された「アメリカ婦人を裸にするスペイン警察」という煽情的な記事で反スペイン感情は高まり、翌98年、アメリカ戦艦メイン号が撃沈された事件を契機にアメリカはスペインに宣戦布告。米西戦争となったのだ。
結果アメリカはこの戦争に勝利し、キューバの独立とともに、フィリピンやグァム、プエルトリコを得て、太平洋覇権を固めることになる。

ハーストの命を受けてキューバに赴いた画家フレデリック・レミントンは、「スペイン人の残虐行為を描いて送れ」との指令を真に受けて探し歩いたが何も見つからず、その旨を電報で知らせた。
これに対するハーストの返答は、「何でもいいから絵を用意せよ。当方は戦争を用意する」だったという。
そして言葉通り、戦争はメディアによって用意された。


他人ごとではないのである。
メディアが政権に寄り添うことの危険は、人間の知性が持つ、目的を定めれば、それが論理で想定できるものならたいていどんなことも実現できてしまうという万能性と、それを押しとどめるはずの良心の視界が、あくまでも主観の裡にとどまるという限界性にある。

人間の知性が未完成であることを識ることほど重要なことはなく、それを教えてくれるのはいつもオーソン・ウェルズのような「トリックスター」なのかもしれない。
そう思う。