2014年6月25日水曜日

逃れ得ぬもの:ゼロ・グラビティの「静寂」

映画「ゼロ・グラビティ」を観た。
公開時にずいぶん話題になっていた映画だし、上下方向にも目を配った新しい音響規格「ドルビー・アトモス」のリリース時にもデモに使われていたりしたので、期待していた。

ゼロ・グラビティ ブルーレイ&DVDセット(初回限定生産)2枚組 [Blu-ray]
ワーナー・ホーム・ビデオ (2014-04-23)
売り上げランキング: 186

しかしあまりにもテンポよく、スムースに展開していく宇宙空間での冒険にヒヤヒヤしているうちに、なにか映画的な「物語」が始まらないうちに映画そのものが終わってしまった、という印象。

事実、短い映画ではある。
宇宙空間で観測をしているハッブル望遠鏡の修理に赴いたクルーたちを、猛スピードで軌道を周回するデブリが襲う。
生き残った者が、近く(と言っても100Km離れている)の国際宇宙ステーションに向かい、再突入用の宇宙船を探すが、こちらもデブリに襲われていて、大気圏には突入できない。
そこで、その宇宙船で、またまたお隣の中国の宇宙ステーションに行き、宇宙船を乗り換えて地球へ、というお話。

おそらく映画館で観ていれば、その圧倒的な孤独を感じさせる宇宙空間の描写や、襲ってくるデブリ、船内での爆発事故などの映像効果が堪能できたのかもしれない。
僕は元来映画に、そのような楽しみを求めていないので、まあこんなものか、と思って見終えた。

しかし、ベッドに入ってから、宇宙服でジョージ・クルーニーがかけていたカントリー・ミュージックが、何故あんなに耳障りに感じたのかが気になり始めた。
サンドラ・ブロック扮する技術者が、悪いけど音楽を止めてくれない、と言った時、僕も耳障りな音楽だなと感じていたのだ。
でも、音楽そのものはのんびりしたカントリー・ミュージックで、決してうるさい音楽ではない。
この感覚、何なんだろう。

ジョージ・クルーニーが、サンドラ・ブロックに、宇宙のどんなところが好きだ、と訊いた時の、「静寂」という答えにその理由があると気付いた。
気付いたとたん、静寂は音だけを指すのではなく、人間関係や、もう少し拡大して「社会」のようなものからの隔絶までも含むのではないか、と思いいたり、ベッドを出てもう一回。
この、気付いた時にもう一回、というのがDVDで映画を観るメリットだ。

すると、冒頭から、この危機を引き起こしているのが、ロシアの衛星破壊であるし、サンドラ・ブロックがジョージ・クルーニーに「それって心配したほうがいい」と訊くのに「そういうのはヒューストン(地上)に心配させとけばいいのさ」と答えている。
騒動は、地上で人間たちが勝手に起こしているものだ、という感覚。
しかしオープニング・ナレーションで、宇宙空間とは生命が存在できないところだ、と前置きしている。
そしてその地上に生命を繋ぎとめているのが「重力」=「グラビティ」である。
この映画、そもそも原題はGRAVITY(重力)で、ゼロ・グラビティ(無重力)ではない。
あのラストシーンでの主役は、明らかにサンドラ・ブロックではなく「重力」だった。

静寂を求めて宇宙空間に来たサンドラ・ブロックも、危機に瀕してジョージ・クルーニーの声を必死に求めた。結局彼女を救ったものも、AM波に乗った子どもの声だった。
逃げようとして逃げられないもの。
ゼロ・グラビティは、それを重力(=グラビティ)に仮託して語った物語だったのだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿