が、ディズニーの製作と知って、本作の魅力のおそらく半分しか描けないだろうな、とも思った。
原作のSF小説「エンダーのゲーム」は、ピーターとエンダーという兄弟の生き方の対比を通して、政治と戦争の関係性を描き出したものだからだ。
DVD化されたものを観て、やはり原作の政治批判部分を担ったピーターが「残虐性」の象徴のように矮小化して描かれていて、そこが少し残念だった。
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原作小説のことをもう少し言えば、「エンダーのゲーム」の登場人物の一人、ビーンを主人公にした「エンダーズ・シャドウ」に始まるシャドウシリーズというスピンアウト作品と、「ゲーム」の続編「死者の代弁者」「ジェノサイド」と続いていく本編シリーズで、政治と宗教を包括して人間性とは何かを問う壮大な世界を立体的に構築している。
現在はもう映画化を機に出版された新訳版の「エンダーのゲーム」しか入手できないのは、とても残念なことだ。
さて、映画のほうでは、
「戦いに勝つためには、相手を理解しなくてはならない」、
そして、「相手を理解すると愛情が芽生える」という皮肉な因果が戦争という悲劇の本質である、というテーマに絞って脚本化されているようだ。
この因果に沿って考えれば、最高の戦闘者は、敵の最高の理解者、ということになる。
だから、単純に「勝利」を目指すためには、理解から生まれる愛着が戦闘の障害になるというディレンマに陥ること無く、指令によって“純粋に”戦争を成す存在として“子どもたち”が選ばれる。
そして戦争そのものも“ゲーム”に偽装しなくてはならない。
しかしそれでも事が成った後、少年は自分たちのしたことに気付き、心に傷を負うだろう。
大人はこれも織り込み済みで、選考時から心のケアのためのスタッフを帯同させている。
しかし、“ケア”によって対処してはならないこともまた、子どもたち自身が一番よく知っている。
なぜなら、50年前の戦争で、やはり敵を理解した故に撃破に成功した“英雄”メイザー・ラッカムの存在すら、政治の中に取り込まれ、戦争の装置に取り込まれていることを少年は知っているからだ。
自分は悪くない、と思ったらこの悲劇は繰り返される、と少年は知っているのだ。
と書いて、これじゃあ映画評ではなくて、現代の日本のことじゃないか、と思って慄然とするが、この間同じようなことを某所に書いたら、そんな心配いりませんよ、と多くの書き込みを戴いたので余計に不安になった。
何故、戦いという目的がなければ「理解」にいたらないのか。
異質なものは、異質であるというだけでなぜ“敵”として扱われるのか。
ジョン・ウィンダムの「トリフィド時代」、ネヴィル・シュートの「渚にて」、ハインラインの「月は無慈悲な夜の女王」、ブライアン・オールディスの「地球の長い午後」。
多くのSFの名作たちがそのテーマに挑んできた。
その疑問は想像の埒外にあってはならないものだからだ。
オーウェルの「1984年」のその先の未来を描き、根源に迫ったSFの古典の想像力。
事実、我々が繰り返してきた愚かな戦いまみれの歴史の要諦がそこにある。