2014年6月29日日曜日

映画「エンダーのゲーム」:戦うことと理解すること

オースン・スコット・カードの「エンダーのゲーム」が映画化されると聞いて、大学生の頃、ハヤカワのSFハンドブックに載っている本を片端から読んでいた日々を懐かしく思い出した。

が、ディズニーの製作と知って、本作の魅力のおそらく半分しか描けないだろうな、とも思った。
原作のSF小説「エンダーのゲーム」は、ピーターとエンダーという兄弟の生き方の対比を通して、政治と戦争の関係性を描き出したものだからだ。
DVD化されたものを観て、やはり原作の政治批判部分を担ったピーターが「残虐性」の象徴のように矮小化して描かれていて、そこが少し残念だった。

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原作小説のことをもう少し言えば、「エンダーのゲーム」の登場人物の一人、ビーンを主人公にした「エンダーズ・シャドウ」に始まるシャドウシリーズというスピンアウト作品と、「ゲーム」の続編「死者の代弁者」「ジェノサイド」と続いていく本編シリーズで、政治と宗教を包括して人間性とは何かを問う壮大な世界を立体的に構築している。
現在はもう映画化を機に出版された新訳版の「エンダーのゲーム」しか入手できないのは、とても残念なことだ。


さて、映画のほうでは、
「戦いに勝つためには、相手を理解しなくてはならない」、
そして、「相手を理解すると愛情が芽生える」という皮肉な因果が戦争という悲劇の本質である、というテーマに絞って脚本化されているようだ。


この因果に沿って考えれば、最高の戦闘者は、敵の最高の理解者、ということになる。
だから、単純に「勝利」を目指すためには、理解から生まれる愛着が戦闘の障害になるというディレンマに陥ること無く、指令によって“純粋に”戦争を成す存在として“子どもたち”が選ばれる。
そして戦争そのものも“ゲーム”に偽装しなくてはならない。


しかしそれでも事が成った後、少年は自分たちのしたことに気付き、心に傷を負うだろう。
大人はこれも織り込み済みで、選考時から心のケアのためのスタッフを帯同させている。
しかし、“ケア”によって対処してはならないこともまた、子どもたち自身が一番よく知っている。
なぜなら、50年前の戦争で、やはり敵を理解した故に撃破に成功した“英雄”メイザー・ラッカムの存在すら、政治の中に取り込まれ、戦争の装置に取り込まれていることを少年は知っているからだ。
自分は悪くない、と思ったらこの悲劇は繰り返される、と少年は知っているのだ。

と書いて、これじゃあ映画評ではなくて、現代の日本のことじゃないか、と思って慄然とするが、この間同じようなことを某所に書いたら、そんな心配いりませんよ、と多くの書き込みを戴いたので余計に不安になった。

何故、戦いという目的がなければ「理解」にいたらないのか。
異質なものは、異質であるというだけでなぜ“敵”として扱われるのか。
ジョン・ウィンダムの「トリフィド時代」、ネヴィル・シュートの「渚にて」、ハインラインの「月は無慈悲な夜の女王」、ブライアン・オールディスの「地球の長い午後」
多くのSFの名作たちがそのテーマに挑んできた。

その疑問は想像の埒外にあってはならないものだからだ。
オーウェルの「1984年」のその先の未来を描き、根源に迫ったSFの古典の想像力。
事実、我々が繰り返してきた愚かな戦いまみれの歴史の要諦がそこにある。

2014年6月28日土曜日

エリック・クラプトン自伝:シンガー・ソング・ライターとしてのクラプトンとスローハンドの真実

エリック・クラプトンが好きなので、2008年に出版された自伝は買っていた。
買っていたが、最初の数ページで投げ出してしまっていた。

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例えば、マネージャーのロジャー・フォレスターと、ピンクフロイドのロジャー・ウォーターズのように同じ名前の人が同じ場面で出てくるようなことが頻発するが、プロのライターのようにうまく書き分けられていないため、文意が取れなかったり、「クラプトンと名付けられる」といったような奇妙な翻訳(これは苗字だから“名付けられる”のではない。その父親から生まれたことを修辞的に表現したものだから、日本語にするときには異なる表現になるはずだ)も頻出して読む気が削がれるのだ。

同じ時期に買ったパティ・ボイドの自伝は、ペニー・ジュノーという伝記作家が手を入れていて、実に読みやすく仕上がっている。
やはりプロの仕事ってすごいですね。

本棚で眠っている積ん読本を片付けるキャンペーンを勝手にやってるので、そんなことも言っていられないから、クラプトンの自伝にも手をつけた。


60年代、70年代のロックの人たちのエピソードには、信じられないようなものが多いが、エリック・クラプトンという男の人生ほど破天荒なものはないだろうと思う。
一応ファンとして、聞こえてくる情報には気を留めていた自分でも、改めて自身の口から語られた生涯を読むと、ホントウによく生きていたものだという感想しか浮かばない。

まず彼は四六時中、ドラッグやアルコールに酔っているのである。
読んだだけで気持ち悪くなるような量の酒を飲む。

そして、その意識の不明瞭さが要因と思うが、恋という欲求に対しての素直さが、もう動物なのである。
ツアーや遊びのために、彼らは世界中を飛び回る。
場所が変わって、素敵な女性を見かけると、その動物的な恋の熱情が発動する。
そしてその熱情と矛盾なく、パティ・ボイドへの一途な恋心に悩んでいたりするのだ。
で、昔から異性が怖かった、などとのたまうのである。
モウ常人にはマッタク理解できまへん。

でもこの「世間ズレ」も無理のないことなのかもしれない。
ごく若い頃から、社会を経験せず、芸能の世界で生きてきて、大量のカネを稼ぎ、しかもそのカネも自分では管理せず、マネージャーが使ったぶんを払っていくわけだから。


この自伝のハイライトは、ドラッグとアルコールに溺れたエリック・クラプトンをなんとか演奏の場に立たせて救い出そうとする英国ロックシーンの盟友たちの奮闘と、それを裏切り続けた末に、ついに取り組んだ、まずはドラッグとの、そしてその後のアルコール中毒との戦いを続けた20年の記録だろう。

この戦いの最中(さなか)にも、名作を何枚も録り、やっぱりちょっと肉欲にも負けたりして、バンドメンバーのイヴォンヌ(既婚者)との間に子どもが出来たり、イタリア 人のモデルとの間にも一子をもうけたりしている。このモデルさんとの子どもがコナーでマンションからの転落事故で亡くなり、「ティアーズ・イン・ヘブン」 の題材となった。

パティとのことを歌った「ワンダフル・トゥナイト」や「ベルボトム・ブルース」。
イヴォンヌとのことを歌った「ゲット・レディ」など、基本的にこの時期のエリックはシンガー・ソング・ライターだったのだと思う。

そして彼が、歌いたいテーマを持ってペンをとると、決まってルーツ・ミュージックとは遠い、ポップなメロディセンスが顔を出す。
そのセンスが第一義的にアルバムを彩っているのが「ピルグリム」だと思う。
死んでしまったコナーと、父として何もできなかった自分。
そこに行方が(それどころか、名前さえも)わからない実父への想いを重ねて書かれた「マイ・ファーザーズ・アイズ」で幕を開けるこのアルバムは、かつてないほど自分の内面に迫った作品といえるだろう。

内省的になればなるほどポップ方面に向かうというのが凡百のソングライターと違う、“クラプトンらしさ”なのだと僕は思っている。

ところで、「ワンダフル・トゥナイト」収録の「スローハンド」だが、スローハンドとは、ヤードバーズ時代からのクラプトンの二つ名だが、これ、あまりにも指が速く動くので、かえってゆっくりに見えるから、という理由をどこかで読んでそのまま鵜呑みにしていた。
ご本人によれば実際には、こういう理由なんだそうだ。
ヤードバーズ時代に一般的な弦よりも細い弦を張るようになり、ステージでよく一弦を切るようになった。
(いきなり話はそれるが、それまではミディアム・ゲージという太さの弦を張るのが一般的だったのだが、今でもロック系の人たちはライトゲージを張る人が多いのは、この時クラプトンが作った流行だったのだ。)
で、この弦交換の間に、観客がゆっくり手拍子をして待っている様子を「スローハンド」と言っていたのだそうだ。
なるほど。


そして、完全にドラッグからも酒からも解放されたエリック・クラプトンは、60歳にして心底くつろげる家庭を得る。そしてそれ以降、「レプタイル」、BBキングやJJケイルとの共作を経て、「バックホーム」「クラプトン」「オールド・ソック」と安定したクオリティのシンガー・ソング・ライターズ・アルバムを 量産している。

ブルースが聴きたいならKeb'Moを聴けばいいと思う。
僕はこの60歳まで子どもだった男がやっと辿り着いた安息の場所で書いた心の歌を聴きたくて、今日もエリック・クラプトンを聴いている。

2014年6月25日水曜日

奥泉光「東京自叙伝」

奥泉光先生の新刊「東京自叙伝」を読んだ。

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怪作なのである。
なにしろ最終章より前はすべてまるごと伏線。
しかし未読の方は、予断を持たず奥泉さんの名調子に身を委ねて、日本語そのものを楽しむのがいいと思う。

ソンナ小説ホントウにオモシロイのか、などという心配はいらない。
これまでのどの作品よりも味わい深い名文なのである。

いや、まさか「鳥類学者」は超えてないでしょ、と思われるファンの方もいらっしゃるでしょう。
ぜひお読みになって確かめていただきたい。
企みに充ちた文体です。
モウこの文体自体に寓意がある。
ただし、鳥類学者やグランド・ミステリーのような複雑で精緻なプロットはない。
そういう面白さではないのです。
ぜひ最終章を読んで、じわじわと迫ってくる文学的企みのダークサイドを感じ取ってほしいのです。

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既読の方は、僕の文章がすでに東京自叙伝の影響を深く受けているのに気がついて失笑していらっしゃることだろう。そのくらいの威力のある、浸透力の強い文章だ。

と、いうわけで、この小説に関しては何を書いてもネタバレになるから、このくらいでやめますが、 くれぐれも、これはちょっと私には合わない、などといって途中を飛ばして最終章だけ読むようなことはなさらないようにお願いしておきます。

逃れ得ぬもの:ゼロ・グラビティの「静寂」

映画「ゼロ・グラビティ」を観た。
公開時にずいぶん話題になっていた映画だし、上下方向にも目を配った新しい音響規格「ドルビー・アトモス」のリリース時にもデモに使われていたりしたので、期待していた。

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しかしあまりにもテンポよく、スムースに展開していく宇宙空間での冒険にヒヤヒヤしているうちに、なにか映画的な「物語」が始まらないうちに映画そのものが終わってしまった、という印象。

事実、短い映画ではある。
宇宙空間で観測をしているハッブル望遠鏡の修理に赴いたクルーたちを、猛スピードで軌道を周回するデブリが襲う。
生き残った者が、近く(と言っても100Km離れている)の国際宇宙ステーションに向かい、再突入用の宇宙船を探すが、こちらもデブリに襲われていて、大気圏には突入できない。
そこで、その宇宙船で、またまたお隣の中国の宇宙ステーションに行き、宇宙船を乗り換えて地球へ、というお話。

おそらく映画館で観ていれば、その圧倒的な孤独を感じさせる宇宙空間の描写や、襲ってくるデブリ、船内での爆発事故などの映像効果が堪能できたのかもしれない。
僕は元来映画に、そのような楽しみを求めていないので、まあこんなものか、と思って見終えた。

しかし、ベッドに入ってから、宇宙服でジョージ・クルーニーがかけていたカントリー・ミュージックが、何故あんなに耳障りに感じたのかが気になり始めた。
サンドラ・ブロック扮する技術者が、悪いけど音楽を止めてくれない、と言った時、僕も耳障りな音楽だなと感じていたのだ。
でも、音楽そのものはのんびりしたカントリー・ミュージックで、決してうるさい音楽ではない。
この感覚、何なんだろう。

ジョージ・クルーニーが、サンドラ・ブロックに、宇宙のどんなところが好きだ、と訊いた時の、「静寂」という答えにその理由があると気付いた。
気付いたとたん、静寂は音だけを指すのではなく、人間関係や、もう少し拡大して「社会」のようなものからの隔絶までも含むのではないか、と思いいたり、ベッドを出てもう一回。
この、気付いた時にもう一回、というのがDVDで映画を観るメリットだ。

すると、冒頭から、この危機を引き起こしているのが、ロシアの衛星破壊であるし、サンドラ・ブロックがジョージ・クルーニーに「それって心配したほうがいい」と訊くのに「そういうのはヒューストン(地上)に心配させとけばいいのさ」と答えている。
騒動は、地上で人間たちが勝手に起こしているものだ、という感覚。
しかしオープニング・ナレーションで、宇宙空間とは生命が存在できないところだ、と前置きしている。
そしてその地上に生命を繋ぎとめているのが「重力」=「グラビティ」である。
この映画、そもそも原題はGRAVITY(重力)で、ゼロ・グラビティ(無重力)ではない。
あのラストシーンでの主役は、明らかにサンドラ・ブロックではなく「重力」だった。

静寂を求めて宇宙空間に来たサンドラ・ブロックも、危機に瀕してジョージ・クルーニーの声を必死に求めた。結局彼女を救ったものも、AM波に乗った子どもの声だった。
逃げようとして逃げられないもの。
ゼロ・グラビティは、それを重力(=グラビティ)に仮託して語った物語だったのだ。

2014年6月18日水曜日

映画「ヘアスプレー」に見透かされた僕の偏見。あるいは髭と茶髪とタトゥーのこと。

サッカー・ワールドカップの試合を観ていて、ずいぶん多くの選手がタトゥーを入れているなあと思っていたら、茂木健一郎さんも同じことを思われたようで、銭湯などでタトゥーを禁止しているのは、ワールド・スタンダードに照らして恥ずかしいから、そういう差別をやめろと言っていた。

知人にもタトゥーを入れている人が数人いるが、確かにイマドキのタトゥーには威圧感などは無く、スタイリッシュだなあとさえ思う。
装飾としてのタトゥーは、自己表現のひとつのスタイルとして定着した感がありますね。
民俗文化としてのタトゥーとは厳密に分けて考えるべきだと思うが、近年この国でも、こうした自己表現を身に纏うことへの抵抗感は随分なくなってきたようだ。

茂木さんの仰る通り、そろそろ銭湯や海水浴場でのタトゥーの扱いを考えなおす時期にきているのかもしれない。


1989年にリクルートに入社して、向ヶ丘遊園にあった寮に入った。
相部屋になった男は、大手の求人広告を扱う花形部署に配属になった。
男の僕から見てもかっこいい男で、仕事っぷりも惚れ惚れするほど際立っていた。

共用して使っていたスーツ掛けにかかっている彼のスーツはすべて紺だったし、ワイシャツも真っ白のものだけだった。それは部署の決まりで、彼らは厳しい服装規定を持っていたのだ。聞くと、靴も黒以外は許されないのだという。
僕らの部署にはそこまで厳しい服装規定はなかったが、それでも敢えて「自己表現」なんかのために顧客に負の心象を与えるリスクを背負う必要はないじゃないか、という空気が支配的だった。

しかし、そんな中にも服装の中に自己を投影することに揺るぎない信念を持っている先輩もいた。
広告制作を担当するその先輩は、客先に打ち合わせに行くときもTシャツだった。
ある時、替わったばかりの上司がそれを問題視して、次回は必ずネクタイ着用で行けと命じた。
先輩は、いつものTシャツにネクタイの絵を描いて、その上司と同行した。

先輩の仕事に信頼を寄せていたお客様は、上司に「今までどおりTシャツで打ち合わせに来れるようにしてやってください」と頼んだという。
そのように、リスクに挑んで打ち勝った人は、好きなように服装に自己表現を持ち込めばよかったし、そこまでのパワーをかける必要を認めない人は、スタンダードだが手入れの行き届いた服装を心がけていた。
厳しい服装規定は、何もなければだらしない格好をしてしまう人をきちんとした営業パーソンに仕立てるシステムとして作用していたのだ。

しかし、時を経るにつれ、安価でファッショナブルなシャツや靴が市場に出てくると、自然そのような考え方が古臭く思えるようになってくる。
省エネルギーのために、夏季にネクタイをしないことが容認されるようになると、真っ白いシャツはむしろファッション巧者のためのアイテムとなり、そうでない僕らは、一枚で着ておかしくないシャツ選びを余儀なくされ、そうなるとどうしてもその選択の中に「自己」が入り込む。
とはいえ、たいして難しいことじゃない。
似合うと思うものを選ぶだけのこと。
いずれにせよ、そのようにして、僕らはだんだん「こうしておけば大丈夫」という鉄板システムを緩めていった。
そしてその先に、「茶髪」と「髭」があった。

髭を生やしたまま営業部に配属されてきた新入社員を見た時にはさすがにぶっとんだが、ほどなく彼は僕の部下になった。
一緒に仕事をしてみると、ひとつひとつの仕事に独創的なアプローチで臨むタイプで、それまで信頼を得られなかったお客様から新しい仕事を取ってきたりする。
すべてのお客様と良好な関係を築けたわけではないが、それはどんな営業パーソンでも似たようなものだ。
僕は彼の髭を許容することにした。
周囲の人からは心配の声も戴いたが、やってみるのも悪くないと思った。

自分にそういう感性がまったく欠けているから気付くのがいつも遅れてしまうのだが、同じ頃、茶髪の男性社員も増えていた。
茶髪の方が、髭よりもハードルが低かったのだろう。
たいして問題になることもなく、一定の割合の人が少し髪を明るい色にして、実際華やいだ印象になって、現場でも打ち解けた雰囲気を作りやすくなるようだった。

そしてタトゥーも、そのまた延長線上にあるのだろう。
すでに書いた通り、知人の中にもタトゥーを入れる人が出てきたので、急速に僕の中での心理的ハードルは下がっている。


なんか、この認知の変化の感じ、どこかで見たなあ、と思って考えていたら思い出した。
ミュージカル映画の傑作「ヘアスプレー」じゃないか。

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1960年代のボルティモアが舞台で、そのころ街は白人のエリアと黒人のエリアに分かれていた。
ちょっとおデブなんだけど、そういうコンプレックスに負けない明るさを持つトレイシーという高校生の女の子が主人公。
白人の彼女が大好きなダンス番組で踊れることになって、その底抜けに明るいキャラクターで人気者になっていくのだが、番組の人種差別規定に反抗して、体当たりでみんなの偏見をぶち破っていくというお話。

2007年のリメイク版しか観ていないが、デブママを特殊メイクで女性になりきって演じたジョン・トラボルタ(!)のダンスも、相手役のクリストファー・ウォーケンの演技も最高で、 楽曲も文句なく素晴らしい。
そしてなんといっても、我々の心が無意識の領域に必ず持っている「偏見」への鋭い視線が胸を刺す。
後半のハイライトでもあるダンス番組への抗議デモ行進で、奴隷として連れて来られた過去に想いを馳せて歌われるバラードには何度涙したかわからない。

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人種差別の歴史を知る上でも絶好の名著である「ダーウィンが信じた道」でも、差別主義者の急先鋒だったアガシが、そもそも最初に差別主義に囚われたきっかけが、ヨーロッパ旅行の際、給仕としてテーブルについた黒人に「恐怖」を感じたからだ、と書いてあった。
思えば、配属されてきた髭の若い社員に僕が感じたものもきっと「恐怖」だったんだろう。
そしてそれは一緒に仕事をして理解することで、取り除かれた。
それ以降は、髭を生やした人も怖くなくなった。

今では、古巣の会社の営業課長さんたちにも髭をたくわえた人が増えているし、髪型も服装もずいぶんファッショナブルだ。

そうやって少しずつ、偏見は消えていく。
杓子定規なタトゥーへの対応が変わっていくのも、思ったより早いかもしれない。


2014年6月17日火曜日

シャーロック・ホームズ「シャドウ・ゲーム」:戦争を作り出す者の経済原理

ガイ・リッチーのシャーロック・ホームズ映画化第一弾は、とてもいい作品だったと思う。なにしろロバート・ダウナー・Jrをシャーロック・ホームズに、ジュード・ロウをワトソン博士にというキャスティングで、つまらない作品ができるはずがない。
というわけで第二弾「シャドウ・ゲーム」も、もちろん観た。

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期待した部分には充分応えてくれたと思う。
主役二人の演技も、映像の出来も素晴らしかった。

しかし、脚本に関して言えば、前作に二歩も三歩も譲る。
冒頭でアイリーン・アドラーが毒殺されてそのまんまという歪さはどうあっても許容できる範囲にない。

まだある。
本作品では、モリアーティ教授に、19世紀末のビジョナリーとして、来るべき戦争の世紀を予想させ、その戦争を収益装置として機能させる仕掛け人を演じさせた。

これは物語の背骨を支える仕掛けとしては、すこしばかり迂闊すぎはしないか。
これでは安っぽい陰謀論だ。
シャーロック・ホームズという物語の器の頑丈さにまことに不釣り合いだとは思わないか。

戦争の経済原理も、武器という巨大な市場も確かに存在する。
現代の政治の裏側には無名の“モリアーティ”が無数に跋扈もしているのだろう。
しかし、それはあくまでも「合理性」のカテゴリーに属するものだ。

近代化された民主国家間の戦争というものはもっと不合理な「理性の限界」の果てに起こるものだろう。

映画の世界で表現しているもののほうが、現実よりも矮小で整然としているとき、僕たちはそこに何を感じ取ればいいというのだろう。

しかも、である。
この案件は、こともあろうに「最後の事件」を題材に採っている。
「最後の事件」で、ホームズはモリアーティからの決死の逃避行を行うが、大陸連絡急行列車をどの駅で降りるか、というところが最終的な争点になる。
ノイマンは「ゲーム理論と経済活動」の中で、この読み合いを「囚人のジレンマ」の典型例として挙げているのである。
ドイル卿は、これを最後と決めて(実際には続編を書かされたが)書いたホームズ作品に、限界まで合理を突き詰めた末に辿り着いた「理性の限界」を描いたのである。

ホームズ譚に対するリスペクトが足りない、と僕には感じられ、そこが残念ではあった。
まあ、このようなエンタテインメント作品に野暮な注文かもしれない。
映画そのものは充分楽しめたのだから。

2014年6月7日土曜日

レコード針の埃はどのように除去すべきか

時々、マイルズ・デイヴィスの音楽が無性に恋しくなり、耐え難い禁断症状に襲われることがある。
何故かはわからない。

で、もうひとつついでにわからないのは、この禁断症状にはもちろんマイルズの音楽を聴くことでしか対処できないが、適当なCDをポンと入れても解消しないということである。
エレクトリック期の、しかもレコード盤で聴かないと、一定の満足感が得られない。

合理的な理由はまったく見つからないが、そう困難なことでもないので、こういう時は心の声にしたがってレコードをかけることにしている。

今週はずっとこの禁断症状に苛まれており、今朝も起き抜けにすぐ二枚組のライブ盤「We Want Miles!」をかけた。


A面の真ん中あたりで、マイルズのトランペットがわずかに歪んだ。
直感的にスタイラス(針)に大きな埃がついたことがわかった。
レコード盤の磨きが充分でなかったようだ。

さっそく愛用の宝石用ルーペで確かめてみると、今までで最大級の埃が!
思わず写真を撮ってみた。

すごい(ひどい)でしょう。

あまりにすごい(ひどい)ので、予てから気になっていたスタイラス(針)の清掃方法についてちょっとした実験をやってみることにした。


僕は、写真右端のオーディオテクニカ製の湿式スタイラスクリーナーAT-607を愛用している。
が、この方式には、針先を固定している接着剤を溶かしてしまうとか、カンチレバーを固定している樹脂部分を硬化させてしまうとか、いろいろと問題が指摘されている。

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そうなのかもしれない。
しかし、本当にブラッシングだけで埃が取れるのか、それが疑問だった。
埃を取り去るのに、多くの回数のブラッシングが必要だとしたら、その物理的摩擦の方がリスクが高いのではないか。

で、今回の酷い汚れに、写真中央に見えるブラシを使い、ブラッシング一回で、どの程度の埃が取れるのかを確かめようというわけだ。

で、やってみたのがこれ。


うまくピントが合わなくて申し訳ない。
ほとんど取れているように見えるが、肉眼ではこまかい埃が取りきれず先端部まで覆っているのが確認できた。

この後、テクニカの湿式クリーナーで締めたのがこちら。


ホントに写真が下手で申し訳ない。
肉眼では、このオーディオテクニカのMMカートリッジAT150MLXの特徴である針先の細いファインラインという形(テクニカではマイクロリニア、と言ってますね)が見事に復活しているのが確認 できた。

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針先のクリアさは音質に重大な影響がある。
以前使っていたテクニカのMMカートリッジは、音は元気で申し分ないものだったが、針先は接合楕円という形で、実は僕の持っている古いサンタナのアルバム(キャラバンサライ)では特定の箇所が飛んでしまって再生できなかった。
それがこのファインラインという針先ではノイズもなくすっと再生できてしまった、という経験がある。

やはりレコードとの接触が良く、トレース力が高まるのだろうか。

ともあれ、針は「汚れない」のが最上に決っているわけで、まずはレコード磨きを怠らないことだと猛省した次第だ。







2014年6月1日日曜日

[でも名盤 vol.5]:ロバート・パーマー「SNEAKIN' SALLY THROUGH THE ALLEY」

超名盤なのに、廃盤になりがちで入手しにくいCDをご紹介している、この[でも名盤]のコーナーのvol.3で取り上げたフランキー・ミラーだが、フランキー・ミラーといえば、三大英国ブルー・アイド・ソウル・シンガーの一人(日本お得意の三大ものだ!)

そして、80年代、ダンディな笑顔でMTVの常連だったロバート・パーマーもその一人なのだ。

そのロバート・パーマーも、デビュー盤「SNEAKIN' SALLY THROUGH THE ALLEY」で、アラン・トゥーサンの楽曲を二曲取り上げている、というかアルバムのタイトル曲がトゥーサンの曲だ。
バックでトゥーサンとミーターズも演奏している。
ISLANDレーベルから出たこのファーストは、80年代のロバート・パーマーを知る我々には意外にもピュアなセカンドライン・ファンクのアルバムで、なにしろ一曲目がリトル・フィートのセイリン・シューズだったりする。

この名盤の扱いが常々愛情のないCD化で不満だったわけだが、昨年(2013年)やっとフランスのレーベルから紙ジャケット化、デジタル・リマスタで発売された。
まだ入手できるうちに買うしかないと思う。

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僕ももちろん買ったのだが、音の分離がよく、超がつくほど豪華なゲスト・ミュージシャンたちの演奏が堪能できる。
ローウェル・ジョージのちょっと表情豊かなスライド・ギター。
タイトル曲では、サイモン・フィリップスのドラムスが見事なセカンドラインを奏でる。本来この人はこういう楽曲でこそ活きると僕は思っている。
コーネル・デュプリーやリチャード・ティーといったSTUFF組も参加して、ニューヨーク・サウンドを披露し、バーナード・パーディーがドラムを叩く曲もある。
ラストの大曲「Through It All There's You」ではスティーブ・ウィンウッドがフェンダー・ローズを弾いている。
豪華だなあ。
ところが今までのCDの音がちっともそれらしくなかったので、なんだかなあ、と思っていたのだ。

そしてこのCD、盤自体が凝っている。
レコードのようなデザインになっている。
まあ、ここまではよくある。
なんとこのCD、裏まで黒いのである!
そこに何の意味があるのかは、わからない。
でも、この無名の名盤にここまでこだわってくれた心意気がうれしいじゃないか。