2013年2月23日土曜日

そして、僕はもう充分に、出会った。

ということで、新しいプリメインアンプがやってきた。


大阪からはるばる大荒れの寒い日本を揺られながら横断してきてくれた。
到着後しばらく、はやる気持ちを抑えて室温に馴染ませてから真空管に火を入れた。

やはり最初の音を出すのは、いつだって緊張する。
最初にかけるのは、このメーカーの本社があるデンマーク(工場はスウェーデン)にちなんで、マイルズ・デイヴィス演奏の「ディア・オールド・ストックホルム」(ラウンド・アバウト・ミッドナイトSACD収録)だ。
最初はちょい硬い音だったが、暖まってくるにつれ饒舌になってきた。
高音が少し強めに出てくるようだ。
スピーカー側のアッテネータで微調整して好みの音に整える。

それから二週間ほど、お店で鳴らしている。
同じスピーカーを鳴らしているのだから、大きく音が変わるなんてことはないが、低音域の出方が、今までのアンプに較べると格段に太くて、分離がいい。
より小さな音でも音楽になって聴こえてくる。
いいアンプだと思う。
しかし、その感覚を他者と共有することは難しい。

類は友を呼ぶで、やはり昔から音楽好きな友人が多い。
しかし(僕にとっては)意外なことに、彼らから再生装置の自慢話を聞いたことは一度もない。
だから僕が、「TANNOYのGreenwichというスピーカーに一目惚れで」とか、「McIntoshの真空管アンプはやっぱり」なんて話をしても、なにか珍しい動物を見るような目で見られるだけである。
ましてや壊れてもいない再生装置を買い換えたりするような話をすると、かなりの確率で眉を顰(ひそ)められる。
しかも、今回は「顔が気に入って」買っている。
完全に理解の埒外だろう。

だからやはり、オーディオというのは、それで独立した趣味なのだと思う。
厄介なのは、それが「音楽」という別の趣味と分かちがたく融合しているところにある。誰だって音楽が好きだというところを入り口に、この世界に入ってくるのだ。

厄介、というのはオーディオ愛好家と話をしていて、「あの演奏がいい」「いや、こちらの方がいい」という本来純粋に音楽的なものであるはずの議論につい、
「貴方の装置でそれがきちんと再生できているのか」
という疑いを無意識に挟み込んでいる、あるいはその可能性に逃げ込んでいるというところにある。

しかし事実、そういう疑念が生じざるを得ないほど、確かに再生装置によって演奏の聞こえ方そのものが変わってしまう経験をしたことがある。それも二度。

最初は、チェット・ベイカーのグレイト・ラスト・コンサートというアルバムでの彼の枯れた歌唱が、安価なアンプとスピーカーで聴いた時には、なんじゃ、これは。なんで、こんなのが名盤なんだ、と思ったがマッキンとタンノイで聴いた時、おおお、これが滋味というものかよ!と心底感動しちゃったのだ。

二度目はベートーヴェンのピアノ協奏曲の四番で、僕の装置では、おおお、ピアニストが高揚し過ぎて音楽が壊れる寸前までいっちゃってるなあ、と思ったシーンが、先輩オーディオファイルのシステムでは、オーケストラが全体できっちりその荒ぶるピアノをサポートしているのが聴き取れたりした。

いい音楽の話なのか、いい音の話なのか、そこがすでに実態として混然としているのだ。ただでさえ「いい」なんて曖昧な基準を「好き」「嫌い」の尺度で語る話がうまく噛み合うほうが不思議なくらいじゃないか。

だからせめて、今回のアンプの買い替えの話なんかは、「音は変わったのか」というあたりに着地しないといけない。

でも、自分のここ数日の心情の変化を思い返してみると、不思議なほど、このアンプの「音」のことは考えていなかった。

COPLANDアンプの北欧デザインの「顔」をニヤニヤしながら眺め、横に回っては、大きな放熱スリットから見えるEL34真空管のオレンジ色のセクシーで暖かい灯火に見とれて、このアンプの「機能」ではなく存在そのものが愛おしくなっていく。

それにつれて、僕が愛してやまないMcIntoshアンプの中域から低域にかけて豊かな残響を表現しようとする音とは対極の、まるで北国の乾いた冬に、暖炉を囲んでいるようなほのかな暖かさを体現しようとするこのアンプの音そのものに、気持ちの側が寄り添っていくのを感じたのだ。

つまり、僕自身には、機器の買い替えによって、音が「変化すること」自体を趣味として楽しむ気持ちは無い、ということだ。
それが今回よくわかった。

振り返ってみると、僕の最初のオーディオ体験は中学入学祝いで買ってもらったオンキヨーのシステム・コンポ。
次は会社に入って最初の給料を頭金にしてローンで買ったパイオニアのA-616アンプとオンキヨーD200スピーカーのセット。
10年後にそのパイオニアが壊れて、買ったDENON PMA-1500RIIアンプ。
まあ、庶民の音楽好き、という感じの機材遍歴。

で、またその10年後に会社を辞めてこの店を始めることになって、突然マッキントッシュだのタンノイだのを買って、にわかオーディオファンみたいになっていたわけだ。
試聴会に出かけて行って、なるほど凄い音のするシステムがあるもんだな、と思ったし、長年オーディオをやってこられた方のシステムを聴けば、まるっきり異次元のスケールの大きな音にびっくりもした。

でも僕はやっぱりある機材に出会って、恋をして、一緒に暮らして、毎日毎日どんどん好きになっていく、今のオーディオとの関係性が好きだ。
そして、僕はもう充分に、出会った。
そう思う。

しかし、この病は不治の病だそうだ。
恋と同じ。
だから、いつかは再発するかもしれないし、そうでないかもしれない。
だとしても、相手を求めて街をうろつくような真似は、今の僕には必要ない、とそういうことだ。

今まで書いてきた、いわばオーディオ≒恋愛説は、僕の場合、アンプとスピーカーにしか適応されない。メディアの再生機構は消耗品であり、恋人は消耗品ではない。
CDプレーヤーとレコードプレーヤーにDENON製品を使っているのは、音が合格ラインにあることはもちろんだが、それ以上に2つ先の駅にデノン・サービス・センターがあるからだし、事実先日CDプレーヤーのトレイが開かなくなった時、そのおかげで随分助かった。

そして今、アナログ再生機構に関しては、小さな懸案が残っている。
機器探しから解放された今、思い切って、ここに切り込んでいくことにした。
実行したら、またご報告したいと思う。

2 件のコメント:

  1. 20年前から私の元にあるCOPLANDが、かつて暮らした宮の森で大切にされている様子を拝見し、懐かしさからコメントいたしました。現在は数年前に都内から転居した千葉の館山に住んでいますが、父が亡くなって管理に困った札幌の実家を処分し、7年前に宮の森のお店と同じ町内のマンションを仮住まいとし、札幌で長期入院中の母の世話のため、東京と札幌を行き来する生活となりました。同時に勤めも早期退職し、趣味である現代美術関係の仕事を札幌で模索する日々に、東京の自宅から持って行ったCOPLANDとタンノイスターリングの音楽を聴くことが心の慰めになったことを思い出しております。その後CTA401は真空管の劣化から回路故障をおこし、しばらくは仕舞い込んだままでしたが、館山の真空管アンプのマエストロ佐久間駿さんのお店コンコルドで出会った方のお力で蘇り、いまもスターリングとのコンビでアナログ再生専用システムとして元気にしています。EL34は松下のヴィンテージ管が安くて良いとの佐久間さんの助言でネット通販で手に入れました。CTA401は私もデザインに惹かれて購入いたしましたが、きちんと音楽のエッセンスを伝えてくれるのに、よけいな主張をすることのないそのたたずまいや緑のパイロットランプを眺めては、心が癒されています。EL34が手に入らぬ事態はまずないようなので、きっと一生添い遂げてくれるでしょう。長いコメントとなり申し訳ありません、母の死後札幌に行くこともほとんどなくなりましたが、再訪の折には宮の森のお店のCOPLANDに会いにゆきたいと思っております。

    返信削除
    返信
    1. コメントに気づかず、返信が遅くなり申し訳ありません。
      それは不思議なご縁ですね。

      実はつい先日も、COPLANDとタンノイグリニッジを組み合わせて聴いておられるという方が大阪から来てくださいました。
      COPLANDアンプがご縁を引き結んでくれているようです。

      もし機会がございましたらぜひいらしてください。

      削除