2012年6月22日金曜日

コクリコ坂から part-2

吾郎氏の前作「ゲド戦記」は世評に言われるほど悪い作品ではなかったと思う。
あれは、父である駿氏への壮絶なラブレターだった。
駿氏が世に問うた名作へのオマージュに溢れていた。
そして彼は長大なル=グウィン原作の小説「ゲド戦記」の中から特に父と子の物語を抽出して描きさえした。


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しかしだからこそなのだろうか、試写会で観た自分へのラブレターに父は酷評をもって応えた。
その評価のコトバは「大人になっていない」だった。
両者の気持ちを思うに今でも胸が痛い。


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その後の駿氏の作品には、その経験が色濃く反映されている。

ポニョは、海底世界の父から逃れてはじめて自己を実現する物語であった。
アリエッティは、尊敬するパパエッティとの借り暮らしの枠を自ら打ち破って拡大することで種族の未来そのものを切り開いた。

作品を通じて会話する親子。
なんという不器用な関係か。

そして前作から5年。またしても吾郎氏は「父なる存在」に振り回されるものたちの物語を描くこととなったわけだ。
しかも今回は脚本をその父自身が書いた作品の演出を行うこととなったのだから、これはもう試練というしかない。
しかしその駿氏の脚本こそが進化していた。

ポニョやアリエッティでは、いわば「ステレオタイプな父性からの逃避」を描ききって見せた。
その成果として描かれた「コクリコ坂から」の世界は、そこにあるのは父性とか母性ではなく、連綿とした命の連鎖そのものなのだという地平に到達している。
そしてそれは血ではなく、心で紡いでいくのだというメッセージに結実しているのだ。

風間くんは、カルチェラタンの取り壊しの是非を話し合う学生集会で、「古いものを壊していかなければ、新しい時代はこない」と主張する多数派に対し、「古いものを壊すことは過去の記憶を捨てることと同じだ。人が生きて死んでいった記憶をないがしろにすることだ。」と叫ぶ。
この台詞は、主人公たちの複雑な生い立ちと相まって観ている我々の心に大事なことを問いかける、この映画の真のクライマックスである。

善と悪、美と醜を二分法で語る未熟。
自分の中にある言葉でしか、他者を斟酌することのできない人間の知性の不調法。
人とはなんと不器用な存在か。


吾郎氏は、再度の監督起用に反対だった駿氏を、自身で描いたコクリコ坂のイメージイラスト一枚で黙らせたほどの才能のある人だ。
それでもやはり監督としてはまだ二作目。
業界での経験も浅い彼は、この深みのある脚本にはずいぶん手を焼いたようで、その苦悩の様子やその結果生まれた駿氏との真剣勝負とも言える交流がNHKの制作した「ふたり」というドキュメンタリーに描かれている。
その中で、行き詰まる息子を見かねてやはりこちらも自身で描いたイラスト一枚でスタッフのモティベーションを一気に盛り返してあげたりする。
やっぱ親子なんだね。

でもこの様子をテレビ放送で観たとき、吾郎氏は自分自身の本当に才能に気付いていないように思えた。


ゲド戦記のハイライトシーンは、と聞けば、多くの人が「テルーの唄」と答えるだろう。
あれは本当に凄かった。広い映画館の空気が一瞬で変わってしまった。


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僕にとってコクリコ坂で最も印象的なシーンは徳丸理事長のカルチェラタン視察だが、あの大きな心のゆらぎを作り出すきっかけになったのも、カルチェラタンの住人たちの合唱による「紺色のうねりが」だ。
特に冒頭4小節の女学生によるソロパートの美しさには完全に心をもっていかれた(って前も書きましたね)。

宮崎吾郎の「声」の演出は凄いと思う。手嶋葵という奇跡の声を発掘し世に出した功績は大きい。そしてだからこそ声の登場に関する彼の演出はいつも完璧だ。
いわば感性の演出。

父駿氏の脚本はいつも宗教観や文学や哲学の素養を下敷きにしたもので、言ってみれば知性の演出だったりする。
それをなぞろうとして苦労しているということなのだろうが、そんな必要あるのだろうか。
人間の声の力、その一発でこれだけ心を動かす作品を作る力を持っているのだ。


コクリコ坂は、紆余曲折を経て結果的に二人の素晴らしいコラボレーション作となったと思う。
まさに父子鷹。
素直に拍手を送りたいと思う。

2012年6月21日木曜日

コクリコ坂から part-1

芳しい「昭和」に青春を生きた我々と同世代の人たちとジブリ作品の話をしていると、「うーん、あれもいいし、これもいいね」と任意のお気に入り作品を挙げた後で、何故か声をひそめて、でも一番好きなのは「耳をすませば」だけどね。と付け加える人が多い。
何を隠そう私もその一人だ。


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2011年のジブリ作品「コクリコ坂から」(宮崎吾朗監督作品)の作品世界には「耳をすませば」によく似た風が吹いている。


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「コクリコ坂から」は同名の少女漫画を原作としているが、今回脚本を担当した宮崎駿氏は、またも大幅なストーリーの改変を行っている。
最も大きな改変は、学校を舞台にした学生たちの「運動」が、原作の漫画では「制服の自由化」であるのに対して「カルチェラタンと呼ばれる部室棟の取り壊し反対」になっている。

「制服の自由化」については、おそらく原作を読んだ時に駿氏はなんでわざわざこんなものをテーマに描くんだ?と思っただろう。
学生服は軍服に、セーラー服はその名の通り水兵服に起源がある。普通の表現者なら、話の展開上主人公たちには最後まで制服着ていて欲しいだろうから。

この自分たちの由来を暗喩する制服の存在のおかげで、彼らの複雑な親子の関係の中に真摯さのようなものを湛えさせているという意味で、この改変は成功していると思う。


そして、カルチェラタンだ。
カルチェ・ラタン(Quartier latin)とはフランス語で「ラテン語を話す(=教養のある)学生の集まる地域」の意味で、ソルボンヌ大学を擁する学生街を指す。
また、学生紛争の時代に中央大学や明治大学で起きた安保への反対運動の一環で神田周辺をバリケードで占拠しようとした試みを「神田カルチェラタン闘争」と呼ぶが、ソルボンヌ大学では1968年に学制改革を求めて学生主体の闘争が起き、実際にカルチェラタンを解放区とした。
さらにその運動は後に労働者のストライキや工場占拠に波及しフランス5月革命の引き金にさえなったのだ。

そして、おそらくここに駿氏の問題意識があるのではないか。

教養の欠如がいろんな問題の遠因となっている。
きっと、彼はそう考えている。
民衆の思考停止を憂いていて、どこか他人事なこの国にあがる閧の声を聴きたいと思っているのではないか。

だから徳間、いや徳丸理事長がカルチェラタンを視察に来た際、樽に住む哲人=ディオゲネスの名前なんかを口走らせたりするのだ。

シニカルの語源となったキュニコス派の哲人。
ことあるごとに言葉の力で金持ちや政治家や大物哲学者(特にプラトンは目の敵だった)につっかかっていった清貧の人。
清貧のあまり樽に住んでいた。
アレキサンダー大王の呼び出しを無視して、興味を持って御自らディオゲネスに会いにきた大王に、望みはないか、と聞かれて、そこに立たれると日が当たらないのでどいてくれと言ったというエピソードまである。
プラトンのイデア論を現実世界で役に立たない思考ゲームと切り捨て、「僕の目には”机そのもの”なんてものは見えないね」と言った。
プラトンと対立したことから教養を嫌悪していたと解説されることがあるが、本質は強者に迎合しないことにあったのではないかと思う。

徳丸理事長のモデルとなった徳間書店の創業者、故徳間康快氏は、自分の母校である逗子開成高校が、八方尾根での遭難事故で被害者家族と決定的な決裂をし経営が傾きかけた時、自ら理事長に就任し、多くの理事や職員が責任を回避しようとして徒に長引いていた事態の早期収拾に動き、その後幾多の改革を経て、地域有数の名門校へと変革させた人だ。

何かと豪快な人柄で有名な人だが、SF小説の愛好家の僕としては、康快氏がSFジャンルでのトップ企業早川書房が折り合いの悪い小説家を締め出して冷や飯を食わせてると聞き、新しい雑誌を作って徳間書店から彼らの作品を率先して出版していたというエピソードが好きだ。
あの頃は徳間文庫をよく買っていた。

こんな康快氏をモデルにした、「コクリコ坂から」の徳丸理事長は、だから物わかりのいい大人などではなく、むしろ大人の事情のようなものに迎合せず、自分のやり方を貫く「樽の中の哲人」そのものなのだと思う。

そして、僕にとってのコクリコ坂のツボはここにあった。

徳丸理事長を迎えるカルチェラタンの面々が一通りの見学の後タイミングを見計らって歌い出される歌。
最初の女性のソロが素晴らしい(おそらく手嶌葵さんでしょう)。
たった4小節ほどの清廉な歌唱に心を持って行かれる。そして折り重なって行く声。
宮沢賢治の「生徒諸君に寄せる」という詩から翻案された歌詞が心の中の水位を徐々に上げていく。
「水平線に没するなかれ」という印象的なリフレインで歌がクライマックスを迎え、終了したその直後に発せられた徳丸理事長の「諸君!」という見事な呼応が聴こえた瞬間、僕の胸の中でなにかが、まるで振り子のように揺れて大きな音を立てた。そして、理由もわからないまま涙腺が決壊し、嗚咽していた。

チャプター12を何度繰り返して観たことだろう。そしてそのシーンを観るたびに感動の波は何度でも僕の心に現れるのだ。


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僕の心を揺らしたものは多分、「理解されたい」という願いだ。
この徳丸理事長に、肩を叩かれたい、という思いだ。

物語の主人公たちのような複雑さなど欠片もないのに、やはりそれなりに悩み多かった両親や友人たちとの関係。
そして今度は自分が親になって直面する楽しくも悩ましい我が子との日々。
そんなものを飲み込んで繰り返し続いていく平凡な日々を讃えてくれる存在である「樽の中の哲人」に、僕は「それでいいんだよ」と言ってもらいたかったのだ。

PART-2に続きます。

2012年6月20日水曜日

借りぐらしのアリエッティ

「借りぐらしのアリエッティ」を観る。
2010年、スタジオジブリ。米林宏昌監督作品。

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観終わって、短いな、と感じてパッケージを見ると94分。
ふむ。崖の上のポニョは101分だからそんなに違わないのだな。

多分短く感じる理由は、この脚本が単線で描かれているからだろうと思う。
今までの宮崎脚本の多くは、「トンネル」によって繋がれた「生」と「死」の世界を行き来することで複線構造を成していた。

ナウシカの腐海の底、ラピュタの坑道、トトロの木のうろ、千と千尋の廃屋、ハウルの洞窟、ポニョのトンネル。

彼らは、その向こう側で自身の存在意義を見つけ、成長し、そして生還する。
そして観ている我々はその不可思議さの中で論理を超えた共感を得るのだ。


今回の脚本には、表向き目に見える形で死の世界は提示されない。
だから、最後に少年の語る言葉に共感しにくいのだと思う。
なんとなく納得のいかない思いで二周目のプレイ。
必ずどこかに隠してあるはずだと思って観ていたら、ああ、そこにあったのか。

少年が病床で読んでいるバーネットの「秘密の花園」がきっと宮崎さんの仕掛けた死のにおいだったのだ。
未読の方は、絶対後悔しないから読んでみて欲しいが、親の愛情をほとんど感じずに育った病床の少年コリンは、いつも「僕は死ぬんだ。放っておいてくれ」と言っているが、メアリーの力で見捨てられた花園が再生していくのと歩調を合わせるように、生きる力を取り戻して行く。

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この本を読みながら「アリエッティ」の少年は病床で何を考えていただろう。
自分の大きな手術を前にしても仕事で海外にいったまま帰ってこない母親。
死の影におびえながらもいい子を演じてしまう自分。
そこに、母親が小さい頃見たという小人にまつわるエピソードが残る古い実家で、自身も小人の影を見つけ、「生」との繋がりを見出す。

少年の心の中で、やはり「生」と「死」は繋がり、彼に生きる意味を与えていたのだ。
それでこそ最後の少年の台詞に力が与えられる。

新人監督には少し、このあたりの脚本意図は表現するに難しかったかもしれないが、全く別の作品世界ごと見事に引用して、一瞬で観ているこちらの心象風景を変えてみせたのだから、やはりこの脚本はただものではない。
観る度に深みをもたらすような「わかりにくさ」を意図していたのかもしれないな。


一回観て感じ取れる表側のテーマは、「人類の借りぐらし」について、ということだろうと思う。

小人たちは人間の家に寄生し、人間の物資をほんの少量づつ「借り」ながら暮らしている。今はほとんどないだろうが、昔よくあった、お隣にお醤油や砂糖を「借りる」ような、返却を前提としない「借り」。
そしてそれは、我々人類と自然との関係を暗喩している。

少年とアリエッティの会話から、我々は、我々自身が大自然の恵みから、返却を前提としない借用を続けて生きてきた存在だと気付くのだ。

そして今の我々のやっていることは、その返却におよばない「借り」の限度を超えた「簒奪」の領域に入っているのではないのか、と自問させられるのだ。


エコロジーという言葉は、ギリシャ語の家を意味する「オイコス」を語源としている。
古代ギリシャでは企業なるものはなく、経済単位は「家業」だった。
この家業そのものが上手くいくための技術的方法論を「オイコノミー」と言い、後にエコノミーになった。
そして都市国家の中で多くの家業が共存共栄していくための社会的方法論を「オイコロジー」と良い、後のエコロジーとなった。
人間社会は進化し、企業体が経済の中心となったが、エコロジーは、自然界で多種多様な生物が共存共栄していくために精緻なバランスシステムが構築されていることに驚いた人間が、自らが昔都市の中で構築したシステムに酷似したそれをエコロジーと呼ぶようになり、今はもっぱら自然環境のことを指すようになったものだ。

我々はそうやって、自らの存在を自然界から孤立させてしまった。
それでも地球の力なくしては生きていくことはできない。

映画「愛と哀しみの果て」で、アフリカの少数民族の族長が言う「水は誰のものでもない」という印象的な台詞があるが、かつて我々の祖先は自覚と自制を持って自然の恵みを「借り」ていたのだと思う。

たぶんこの映画で一番印象的なのはアリエッティとパパエッティの「借り」のシーンだと思うが、「狩り」に模したあの冒険を「借り」と呼んでいることこそは、その自嘲の感情の現れなのではないだろうか。

2012年6月6日水曜日

1Q84 REVIEW3 村上春樹は教養で世界を書き換える

青豆が、1Q84年の世界に入り込んでしまう首都高の非常階段から見えた、誰かの家のベランダのゴムの木は、BOOK3で青豆が潜伏に入ってからも登場するし、最後には出口の道案内ともなる重要な小道具だ。

ゴムの木の花言葉は「永遠の愛」。

だから1Q84の背骨は、天吾と青豆の永遠の愛の物語であることは間違いない。


であると同時に、1Q84は「王殺し」の物語でもある。
深田保と青豆が対峙する重要なシーンで、深田はフレイザーの「金枝篇」を引用して王の役割を「声を聴くもの」と定義する。そしてその役割を終えるとできるだけ残虐な方法で殺され、贄とならなければならず、それこそが最大の名誉なのだと言う。そして、そうであったからこそ神聖であった王という役割もいつの間にか世襲の職業になってしまったと嘆いてみせる。


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「金枝篇」は未開社会の神話・呪術・信仰に関する集成的研究書で、タイトルの金枝というのは宿り木のこと。イタリアのネミにおける宿り木信仰に伝えられる、森のディアナ神の聖所の祭司になるためには、金枝(宿り木)を持って来て、現在の祭司を殺さなくてはならないという政権交代の作法から名付けられているのだ。
そしてこの祭司は「森の王」と呼ばれている。
祭司=声を聴くもの=王という構図は、いにしえの神話世界のものなのだ。


天吾が「ふかえり」に読み聞かせるチェーホフの「サハリン島」ではギリヤーク人という先住民がサハリン島が文明化されて道路が整備された後も、森から出ず「森の道」を使っていたというエピソードが登場する。
近代的な、いわば人のための宗教とは異なる価値観がそこでは語られている。


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「森の王」や「森の道」に彩られた1Q84の世界は、その意味で、金を集め、権力を求め、政治を動かして世界に道を拓いていった近代的な思想を排除して神話世界に復古していく物語ともいえる。


この他にも1Q84という文芸作品には、まるで目くらましのように過去の文学作品などの引用が入り乱れている。
優秀な殺人者であるタマルはチェーホフを引用して「小説に拳銃が出て来たら、それは発射されなければならない」と拳銃を持つことの危険性を語り、さらに潜伏中の青豆にプルーストの「失われた時を求めて」を読むよう勧める。
天吾は幼少時にディケンズを愛読しているし、識字障害のあるふかえりは平家物語の任意の章を暗唱出来るほどテープで聴いている。
牛河は、自分を「罪と罰」の登場人物になぞらえてソーニャと出会えなかったラスコーリニコフのようだと感じた。

人は、この価値観の大きく揺れ動いた時代の波を超えてたくさんの「本」を読み継いで来た。失われた物語もあるかもしれないが、時の洗礼を受けて生き残ってきた物語が、これほど多様な彩りをひとつの小説に与えていることに私は深い感銘を覚える。


そしてもちろん、ジョージ・オーウェルの「1984年」。
1Q84は、今日的に「1984年」の問題意識を読み替えていく物語でもある。

オーウェルがイメージしたような全体主義による統制は起こらなかった。資本主義はそのままのカタチで暴走ともいえる発展を遂げた。
そして人間の欲望をどこまでもドライブした。
そしていろんな怪物が生まれた。

市場万能主義の陰で広がり続ける格差。
競争至上主義の陰で衰退する道徳心。
社会の中で居場所が見つけられない人たち。
他人の失点を目を皿のようにしてさがしている人たち。
蔓延する批評家気質。

1984年と1Q84。
どちらの行く末も、それぞれに問題がある。そういうものなのだ。
結局その中でどのような「生」を選び取るのか、ということにつきるのだ。


王を殺して新しい王を戴くことの繰り返しでは書き換えられない未来がある。

青豆と天吾だけが、なぜ1Q84の世界から脱出できたのか。
それはもちろん二人の心が繋がっていたということだ。

自分の心の中に「他人」をセットする機会は近代化の中で得難くなったもののひとつだ。
天吾は父を喪い、まるで他人のようだと思っていた父が実は深い愛情を寄せてくれていたことを知ることではじめて他人にも自分と同じように気持ちがあるのだ、と気付いた。

青豆は、潜伏期間中ずっとプルーストの「失われた時を求めて」を読んでいる。
プルーストの執拗な人間描写は、本人が気付かずに行動しているであろうことまで詳細に解き明かしながらいっさいの省略なく描かれ続けていく。
この読書体験はおそらく天吾の経験した喪失に匹敵するものだっただろう。

そうして二人は1Q84の世界を抜け出す資格を得たのだと思う。


私は確かに見届けたような気がする。
村上春樹が、世界を書き換えた瞬間を。

2012年6月5日火曜日

1Q84 REVIEW2 村上春樹は「暴力」で世界を読み解く

この1Q84という作品は、ジョージ・オーウェルの1984年という小説からタイトルをインスパイアされている。


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しかしどれだけ読んでも共通点はほとんどなく、すぐに見て取れるのは「1984年」で管理社会の親玉として描かれる「ビッグ・ブラザー」と「1Q84」での「リトル・ピープル」という言葉上の対比くらいだ。

ビッグとリトル。
対置する概念。

つまり、村上春樹は、オーウェルの思い描いたのとはまったく違う「1984年」像を描きたかったのだろう。


オーウェルの「ビッグ・ブラザー」が象徴しているものは、政治的な管理社会の脅威という名の「20世紀的暴力」だった。

フランス革命から始まった「近代」は、支配者であり、民の所有者であった「王」から市民自身に主権を委譲させて行くというモーメントだ。
しかし程なく、その近代化を支えたブルジョアジーが新たな簒奪を始めることになり、早くもユートピアの衰退が始まる。
王の簒奪から市民同士の簒奪にと、よりやるせない方向に舵を切っていったわけだ。

いかに経済が発展し科学が進化しても、その社会は新しくて深刻な歪みを抱え込んだものとなってしまう。
解決策として持ち出されたのは、社会主義や共産主義といった管理的な社会で、オーウェルはその管理社会の行く末を、個人の判断や自由が侵された社会の不自然さとして描くことで警鐘を鳴らしたのだ。

しかし、現実は残念ながらもう少し複雑で残酷だ。
マルクスが資本主義社会の爛熟の果てに出現すべく予想した社会主義は、資本主義が浸透せず経済的劣位にあった国々にこそ根付いてしまい、冷戦という薮睨みの構造を作り出す。
そしてその混沌を率いてくれるはずのリーダーのことを思うとき、現代に生きる我々は民衆に負担を強いるタイプの為政者を歓迎する傾向を持つことをすぐに思い出せるだろう。ナポレオン、ヒトラー、そして我らが小泉純一郎。

20世紀は、世界の枠組みを模索しながら我々が我々自身を傷つけていく暴力の時代だったのだ。


このように現実の1984年はもちろんオーウェルの予言したようなものにはならなかったことを誰もが知っている。
そこが近未来を題材にした小説のつまらなさ(あるいは無意味さ)だと村上春樹はインタヴューに答えて語っている。

だから現実の1984年を経験してきた立場で、もう一度1984年という時代に潜っていって、本当にそうだったのか、何かの悪意がそこにあったのではないのかと問い直すために、現実を書き換えて行く力を持ったリトル・ピープルを登場させた、とそういうことではないか。


オーウェルの1984年でも、不都合な情報に政府が目を光らせていて、それを文字通りいちいち書き換えていくことで現実を改変していく。

1Q84の世界では、リトル・ピープルが不思議な力で世界を改変していくが、ではリトル・ピープルもビッグ・ブラザーもいないこの現実の世界では、何が作用して世界がこのような姿になっているのか、と村上春樹は問うているのだ。

そしてリトル・ピープルは、露悪的な脅威というよりは、個人を通路として姿を現す、不可思議で原初的な「恐怖」として描かれているように思う。
あくまでもその力を地下の世界から引き込んだのは我々自身であるように書かれている。

大きな戦争の時代を経て、復興、オイルショック、新しいスタイルの高度経済成長、バブル経済、そしてそれ以降の「失われた時代」へと繋がっていく暗い底流はいったいどこから来たのか。

オーウェルが想像した国家的なアイコンとしてのビッグ・ブラザーに対置したものが、個人と地下世界の密通者であるリトル・ピープルであったところに村上春樹の思う「21世紀的な暴力の姿」を知る鍵が隠されているように思う。


かつてか弱い存在だった人類は、社会性を纏い、群れることでその欠点をカバーしていき、やがて充分な強さを得たとき、個人性や自由を重視するようになっていった。
オーウェルの問題意識が社会性の延長に想定された「暴力」であったのに対して、村上春樹の問題意識の核にある「暴力」はあくまで個人性に根源を求めようとしているのではないかと思われてならないのだ。

だからそれを知ることは我々一人一人の中に潜む「リトル・ピープル」と対峙することでしか見えてこないのかもしれない。


そして文学はそのために我々に残された数少ない有効な武器のひとつではないかと思う。

だからだろうか。この1Q84には、(おそらく)村上春樹の読んできた本がそのまま登場して、タマルや天吾や青豆によって読まれている。これはもしかしたら我々のために村上春樹が用意してくれたブックガイドなのかもしれない。

そのあたりに焦点をあてて、次回最終回になるREVIEW3の稿を起こそうと思う。

2012年6月4日月曜日

1Q84 REVIEW1 村上春樹は運命を冷徹で厳密な視線で扱う

全巻の文庫化が終了したのでようやく、村上春樹の「1Q84」を手に取った。


1Q84 BOOK1〈4月‐6月〉前編 (新潮文庫)
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熱に浮かされるように全編を三日間で読み切って、最初に頭に浮かんだのは、ついに村上春樹は「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」ではすれ違うことしかできなかった運命の恋人たちを、再び邂逅させられるほどの「強い」情熱に貫かれた物語を書いたのだな、ということだった。

村上春樹を最初に読んだのは、大学生の頃だったと思う。

当時一番好きだったのは、「カンガルー日和」という短編集に収録された「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」という10ページにも満たないとても短い掌編だった。
そこに描かれていたのは、街ですれ違った女の子に何故か運命的な縁を感じるのだが、32歳になりある種の無邪気さを喪ってしまった彼には彼女にどう声をかけていいのかわからずに、そのまま声もかけないまま行き過ぎてしまう、というごく日常的な風景だった。

そして彼が後に「こう話しかければ良かった」と思いつく独白の中で、運命の出会いをしたのに、あまりにも簡単に叶ってしまった運命の人との出会いを疑ったがゆえにその縁を喪ってしまった恋人同志について語られる。


村上春樹の「運命」というものへの冷徹な視線がとても新鮮に思えた。ちょうどその頃大学の哲学科にいた私は、ハイデガーの「存在と時間」にある「時間というものは過去から現在、そして未来へと流れているのではなくて、「現在」という時間こそが過去や未来を参照したり開示したりして時間というものを生み出す「働き」をするのだ」との主張に触れ、ああ、もしかしたら村上春樹の言っていることもそういうものの延長にある考え方なのかも知れないなと思ったりした。


村上春樹は、同様に運命的な少年と少女の物語を、「国境の南、太陽の西」でも描いている。
これも大好きな物語だが、少年はここでは運命の女性とせっかく決定的な再会を果たすのに、最終的には積み重ねてきた平凡な日常の中に帰って行くことを選ぶ。

「ノルウェイの森」でも主人公は直子と結ばれることはなく、直子の服を着て現れる玲子さんと体を触れ合わすだけだ。

「スプートニクの恋人」では、主人公はすみれと再会を果たす(と私は読んだ)が、すみれの運命の人はミュウなのであって、やはり運命の恋は成就しないのだ。

そして、1Q84では(たぶん)はじめて運命の二人を、これ以上ないハッピーエンドに導いた。この青豆と天吾の顛末を読むに至って、村上春樹は運命に「冷徹」なのではなくて、そいつに抗うには相当なエネルギーが必要だと知っていて、まだ過去の諸作を書いた時点では物語にそういう超越的なエネルギーを持たせられなかったのではないのか、と思うようになった。

作者村上春樹本人が語っているように(新潮社「考える人」2010年夏号)この作品は、バッハの平均律クラヴィーアというピアノ曲にその構成を借りている。
この曲は1オクターヴの中にある12の半音それぞれを主音とする長調と短調を使った、計24曲で構成されていてBOOK1とBOOK2の二つの楽譜として発表されたものだ。


1Q84 BOOK2〈7月‐9月〉前編 (新潮文庫)
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1Q84 BOOK2〈7月‐9月〉後編 (新潮文庫)
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1Q84では天吾と青豆をそれぞれ長調と短調に見立てて24章で構成してご丁寧にBOOK1とBOOK2という形で出版されたわけだ。

この構成のおかげで、1Q84は青豆と天吾の独立した一人称のふたつの物語となり、それぞれが影響を受けずに自分自身の強さでもって「時間」という存在と闘うことができ、そして勝利したのだ、と感じた。
だから感動した。BOOK2の終わりで、すべての運命が閉じた、と感じた。


そして、それを受けて完結した物語を再起動したように始まるBOOK3という物語。


1Q84 BOOK3〈10月‐12月〉前編 (新潮文庫)
村上 春樹
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1Q84 BOOK3〈10月‐12月〉後編 (新潮文庫)
村上 春樹
新潮社 (2012-05-28)
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最初のうち解説的で、村上春樹的でない物語運びだなあと感じていたのだが、読み進めていくうちに、BOOK3の各章は、BOOK1やBOOK2のそれのようには一人称としての独立性を持っていないように感じ始めた。
独立した一人称として機能しているのは牛河だけで、青豆と天吾はすでに引き合うように相互に依存しながら動いている。バッハに構成を借りてまで整った物語を書いたわけだから、もちろんBOOK3を書くつもりは最初なかったはずだ。

今までのほぼすべての作品で、村上春樹は作中を生きた愛すべき登場人物たちの「その後」を描くことを慎重に避けている。
場合によっては必要な記述さえも省いて。

それはきっと運命とか因果というものに対する村上春樹の態度に起因している。
人生は「こういう生き方をしてきたのでこうなりました」というふうにはいかないものだ、という考え方がそこには息づいているような気がする。
だからたいていの場合、物語は主人公が何かを決断したところで終わることになっている。

しかし、1Q84ではこれまでにないほどはっきりと運命の二人の結末を描いた。
きっと描きたくなった。
そのためには完全に調和して完結したBOOK1とBOOK2の外側にキャンバスが必要だったのだと思う。


そしてそれは、とりも直さず、私が「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」に感じている気持ち悪さへの回答でもあった。
あの物語は「ハードボイルド・ワンダーランド」側で終わるべきだった、と今でも思っている。
家に本をお持ちの方ははためしに39章と40章の順序を入れ換えて読んでみてほしい。
実に納まりが良く、「普通」の小説らしくみえるはずだ。

しかし、前述の理由で、「世界の終わり」側での決断が現実社会でどのような姿を取るのかを述べてしまうことは村上春樹にとってはどちらかというと不自然なことで、その決断そのものがあの物語の結末にふさわしいということなのだろう。
一人の人格の内と外を描いている以上、そして決断が心の裡で下されるものである以上、あれ以外の書き方はやはりなかったのだ。


そしてだからこそ、やはり1Q84のBOOK3はああいうカタチで書かれて良かったのだ、と思う。

しかしこの1Q84という物語、大量の紙幅を使いながらいつも以上に積み残した謎は多い。その中でもタイトルから推測するに物語の核心を担っているはずなのに、まるで内実については語られなかった「リトル・ピープル」を主題に、稿を改めて感じたことを書いてみたい。

REVIEW2に続く。