村上 春樹
新潮社 (2012-03-28)
売り上げランキング: 1,667
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村上 春樹
新潮社 (2012-03-28)
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熱に浮かされるように全編を三日間で読み切って、最初に頭に浮かんだのは、ついに村上春樹は「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」ではすれ違うことしかできなかった運命の恋人たちを、再び邂逅させられるほどの「強い」情熱に貫かれた物語を書いたのだな、ということだった。
村上春樹を最初に読んだのは、大学生の頃だったと思う。
当時一番好きだったのは、「カンガルー日和」という短編集に収録された「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」という10ページにも満たないとても短い掌編だった。
そこに描かれていたのは、街ですれ違った女の子に何故か運命的な縁を感じるのだが、32歳になりある種の無邪気さを喪ってしまった彼には彼女にどう声をかけていいのかわからずに、そのまま声もかけないまま行き過ぎてしまう、というごく日常的な風景だった。
そして彼が後に「こう話しかければ良かった」と思いつく独白の中で、運命の出会いをしたのに、あまりにも簡単に叶ってしまった運命の人との出会いを疑ったがゆえにその縁を喪ってしまった恋人同志について語られる。
村上春樹の「運命」というものへの冷徹な視線がとても新鮮に思えた。ちょうどその頃大学の哲学科にいた私は、ハイデガーの「存在と時間」にある「時間というものは過去から現在、そして未来へと流れているのではなくて、「現在」という時間こそが過去や未来を参照したり開示したりして時間というものを生み出す「働き」をするのだ」との主張に触れ、ああ、もしかしたら村上春樹の言っていることもそういうものの延長にある考え方なのかも知れないなと思ったりした。
村上春樹は、同様に運命的な少年と少女の物語を、「国境の南、太陽の西」でも描いている。
これも大好きな物語だが、少年はここでは運命の女性とせっかく決定的な再会を果たすのに、最終的には積み重ねてきた平凡な日常の中に帰って行くことを選ぶ。
「ノルウェイの森」でも主人公は直子と結ばれることはなく、直子の服を着て現れる玲子さんと体を触れ合わすだけだ。
「スプートニクの恋人」では、主人公はすみれと再会を果たす(と私は読んだ)が、すみれの運命の人はミュウなのであって、やはり運命の恋は成就しないのだ。
そして、1Q84では(たぶん)はじめて運命の二人を、これ以上ないハッピーエンドに導いた。この青豆と天吾の顛末を読むに至って、村上春樹は運命に「冷徹」なのではなくて、そいつに抗うには相当なエネルギーが必要だと知っていて、まだ過去の諸作を書いた時点では物語にそういう超越的なエネルギーを持たせられなかったのではないのか、と思うようになった。
作者村上春樹本人が語っているように(新潮社「考える人」2010年夏号)この作品は、バッハの平均律クラヴィーアというピアノ曲にその構成を借りている。
この曲は1オクターヴの中にある12の半音それぞれを主音とする長調と短調を使った、計24曲で構成されていてBOOK1とBOOK2の二つの楽譜として発表されたものだ。
村上 春樹
新潮社 (2012-04-27)
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村上 春樹
新潮社 (2012-04-27)
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1Q84では天吾と青豆をそれぞれ長調と短調に見立てて24章で構成してご丁寧にBOOK1とBOOK2という形で出版されたわけだ。
この構成のおかげで、1Q84は青豆と天吾の独立した一人称のふたつの物語となり、それぞれが影響を受けずに自分自身の強さでもって「時間」という存在と闘うことができ、そして勝利したのだ、と感じた。
だから感動した。BOOK2の終わりで、すべての運命が閉じた、と感じた。
そして、それを受けて完結した物語を再起動したように始まるBOOK3という物語。
村上 春樹
新潮社 (2012-05-28)
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村上 春樹
新潮社 (2012-05-28)
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最初のうち解説的で、村上春樹的でない物語運びだなあと感じていたのだが、読み進めていくうちに、BOOK3の各章は、BOOK1やBOOK2のそれのようには一人称としての独立性を持っていないように感じ始めた。
独立した一人称として機能しているのは牛河だけで、青豆と天吾はすでに引き合うように相互に依存しながら動いている。バッハに構成を借りてまで整った物語を書いたわけだから、もちろんBOOK3を書くつもりは最初なかったはずだ。
今までのほぼすべての作品で、村上春樹は作中を生きた愛すべき登場人物たちの「その後」を描くことを慎重に避けている。
場合によっては必要な記述さえも省いて。
それはきっと運命とか因果というものに対する村上春樹の態度に起因している。
人生は「こういう生き方をしてきたのでこうなりました」というふうにはいかないものだ、という考え方がそこには息づいているような気がする。
だからたいていの場合、物語は主人公が何かを決断したところで終わることになっている。
しかし、1Q84ではこれまでにないほどはっきりと運命の二人の結末を描いた。
きっと描きたくなった。
そのためには完全に調和して完結したBOOK1とBOOK2の外側にキャンバスが必要だったのだと思う。
そしてそれは、とりも直さず、私が「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」に感じている気持ち悪さへの回答でもあった。
あの物語は「ハードボイルド・ワンダーランド」側で終わるべきだった、と今でも思っている。
家に本をお持ちの方ははためしに39章と40章の順序を入れ換えて読んでみてほしい。
実に納まりが良く、「普通」の小説らしくみえるはずだ。
しかし、前述の理由で、「世界の終わり」側での決断が現実社会でどのような姿を取るのかを述べてしまうことは村上春樹にとってはどちらかというと不自然なことで、その決断そのものがあの物語の結末にふさわしいということなのだろう。
一人の人格の内と外を描いている以上、そして決断が心の裡で下されるものである以上、あれ以外の書き方はやはりなかったのだ。
そしてだからこそ、やはり1Q84のBOOK3はああいうカタチで書かれて良かったのだ、と思う。
しかしこの1Q84という物語、大量の紙幅を使いながらいつも以上に積み残した謎は多い。その中でもタイトルから推測するに物語の核心を担っているはずなのに、まるで内実については語られなかった「リトル・ピープル」を主題に、稿を改めて感じたことを書いてみたい。
REVIEW2に続く。
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