ジョージ・オーウェル
早川書房
売り上げランキング: 1,549
早川書房
売り上げランキング: 1,549
しかしどれだけ読んでも共通点はほとんどなく、すぐに見て取れるのは「1984年」で管理社会の親玉として描かれる「ビッグ・ブラザー」と「1Q84」での「リトル・ピープル」という言葉上の対比くらいだ。
ビッグとリトル。
対置する概念。
つまり、村上春樹は、オーウェルの思い描いたのとはまったく違う「1984年」像を描きたかったのだろう。
オーウェルの「ビッグ・ブラザー」が象徴しているものは、政治的な管理社会の脅威という名の「20世紀的暴力」だった。
フランス革命から始まった「近代」は、支配者であり、民の所有者であった「王」から市民自身に主権を委譲させて行くというモーメントだ。
しかし程なく、その近代化を支えたブルジョアジーが新たな簒奪を始めることになり、早くもユートピアの衰退が始まる。
王の簒奪から市民同士の簒奪にと、よりやるせない方向に舵を切っていったわけだ。
いかに経済が発展し科学が進化しても、その社会は新しくて深刻な歪みを抱え込んだものとなってしまう。
解決策として持ち出されたのは、社会主義や共産主義といった管理的な社会で、オーウェルはその管理社会の行く末を、個人の判断や自由が侵された社会の不自然さとして描くことで警鐘を鳴らしたのだ。
しかし、現実は残念ながらもう少し複雑で残酷だ。
マルクスが資本主義社会の爛熟の果てに出現すべく予想した社会主義は、資本主義が浸透せず経済的劣位にあった国々にこそ根付いてしまい、冷戦という薮睨みの構造を作り出す。
そしてその混沌を率いてくれるはずのリーダーのことを思うとき、現代に生きる我々は民衆に負担を強いるタイプの為政者を歓迎する傾向を持つことをすぐに思い出せるだろう。ナポレオン、ヒトラー、そして我らが小泉純一郎。
20世紀は、世界の枠組みを模索しながら我々が我々自身を傷つけていく暴力の時代だったのだ。
このように現実の1984年はもちろんオーウェルの予言したようなものにはならなかったことを誰もが知っている。
そこが近未来を題材にした小説のつまらなさ(あるいは無意味さ)だと村上春樹はインタヴューに答えて語っている。
だから現実の1984年を経験してきた立場で、もう一度1984年という時代に潜っていって、本当にそうだったのか、何かの悪意がそこにあったのではないのかと問い直すために、現実を書き換えて行く力を持ったリトル・ピープルを登場させた、とそういうことではないか。
オーウェルの1984年でも、不都合な情報に政府が目を光らせていて、それを文字通りいちいち書き換えていくことで現実を改変していく。
1Q84の世界では、リトル・ピープルが不思議な力で世界を改変していくが、ではリトル・ピープルもビッグ・ブラザーもいないこの現実の世界では、何が作用して世界がこのような姿になっているのか、と村上春樹は問うているのだ。
そしてリトル・ピープルは、露悪的な脅威というよりは、個人を通路として姿を現す、不可思議で原初的な「恐怖」として描かれているように思う。
あくまでもその力を地下の世界から引き込んだのは我々自身であるように書かれている。
大きな戦争の時代を経て、復興、オイルショック、新しいスタイルの高度経済成長、バブル経済、そしてそれ以降の「失われた時代」へと繋がっていく暗い底流はいったいどこから来たのか。
オーウェルが想像した国家的なアイコンとしてのビッグ・ブラザーに対置したものが、個人と地下世界の密通者であるリトル・ピープルであったところに村上春樹の思う「21世紀的な暴力の姿」を知る鍵が隠されているように思う。
かつてか弱い存在だった人類は、社会性を纏い、群れることでその欠点をカバーしていき、やがて充分な強さを得たとき、個人性や自由を重視するようになっていった。
オーウェルの問題意識が社会性の延長に想定された「暴力」であったのに対して、村上春樹の問題意識の核にある「暴力」はあくまで個人性に根源を求めようとしているのではないかと思われてならないのだ。
だからそれを知ることは我々一人一人の中に潜む「リトル・ピープル」と対峙することでしか見えてこないのかもしれない。
そして文学はそのために我々に残された数少ない有効な武器のひとつではないかと思う。
だからだろうか。この1Q84には、(おそらく)村上春樹の読んできた本がそのまま登場して、タマルや天吾や青豆によって読まれている。これはもしかしたら我々のために村上春樹が用意してくれたブックガイドなのかもしれない。
そのあたりに焦点をあてて、次回最終回になるREVIEW3の稿を起こそうと思う。
0 件のコメント:
コメントを投稿