2010年、スタジオジブリ。米林宏昌監督作品。
スタジオジブリ (2011-06-17)
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観終わって、短いな、と感じてパッケージを見ると94分。
ふむ。崖の上のポニョは101分だからそんなに違わないのだな。
多分短く感じる理由は、この脚本が単線で描かれているからだろうと思う。
今までの宮崎脚本の多くは、「トンネル」によって繋がれた「生」と「死」の世界を行き来することで複線構造を成していた。
ナウシカの腐海の底、ラピュタの坑道、トトロの木のうろ、千と千尋の廃屋、ハウルの洞窟、ポニョのトンネル。
彼らは、その向こう側で自身の存在意義を見つけ、成長し、そして生還する。
そして観ている我々はその不可思議さの中で論理を超えた共感を得るのだ。
今回の脚本には、表向き目に見える形で死の世界は提示されない。
だから、最後に少年の語る言葉に共感しにくいのだと思う。
なんとなく納得のいかない思いで二周目のプレイ。
必ずどこかに隠してあるはずだと思って観ていたら、ああ、そこにあったのか。
少年が病床で読んでいるバーネットの「秘密の花園」がきっと宮崎さんの仕掛けた死のにおいだったのだ。
未読の方は、絶対後悔しないから読んでみて欲しいが、親の愛情をほとんど感じずに育った病床の少年コリンは、いつも「僕は死ぬんだ。放っておいてくれ」と言っているが、メアリーの力で見捨てられた花園が再生していくのと歩調を合わせるように、生きる力を取り戻して行く。
この本を読みながら「アリエッティ」の少年は病床で何を考えていただろう。
自分の大きな手術を前にしても仕事で海外にいったまま帰ってこない母親。
死の影におびえながらもいい子を演じてしまう自分。
そこに、母親が小さい頃見たという小人にまつわるエピソードが残る古い実家で、自身も小人の影を見つけ、「生」との繋がりを見出す。
少年の心の中で、やはり「生」と「死」は繋がり、彼に生きる意味を与えていたのだ。
それでこそ最後の少年の台詞に力が与えられる。
新人監督には少し、このあたりの脚本意図は表現するに難しかったかもしれないが、全く別の作品世界ごと見事に引用して、一瞬で観ているこちらの心象風景を変えてみせたのだから、やはりこの脚本はただものではない。
観る度に深みをもたらすような「わかりにくさ」を意図していたのかもしれないな。
一回観て感じ取れる表側のテーマは、「人類の借りぐらし」について、ということだろうと思う。
小人たちは人間の家に寄生し、人間の物資をほんの少量づつ「借り」ながら暮らしている。今はほとんどないだろうが、昔よくあった、お隣にお醤油や砂糖を「借りる」ような、返却を前提としない「借り」。
そしてそれは、我々人類と自然との関係を暗喩している。
少年とアリエッティの会話から、我々は、我々自身が大自然の恵みから、返却を前提としない借用を続けて生きてきた存在だと気付くのだ。
そして今の我々のやっていることは、その返却におよばない「借り」の限度を超えた「簒奪」の領域に入っているのではないのか、と自問させられるのだ。
エコロジーという言葉は、ギリシャ語の家を意味する「オイコス」を語源としている。
古代ギリシャでは企業なるものはなく、経済単位は「家業」だった。
この家業そのものが上手くいくための技術的方法論を「オイコノミー」と言い、後にエコノミーになった。
そして都市国家の中で多くの家業が共存共栄していくための社会的方法論を「オイコロジー」と良い、後のエコロジーとなった。
人間社会は進化し、企業体が経済の中心となったが、エコロジーは、自然界で多種多様な生物が共存共栄していくために精緻なバランスシステムが構築されていることに驚いた人間が、自らが昔都市の中で構築したシステムに酷似したそれをエコロジーと呼ぶようになり、今はもっぱら自然環境のことを指すようになったものだ。
我々はそうやって、自らの存在を自然界から孤立させてしまった。
それでも地球の力なくしては生きていくことはできない。
映画「愛と哀しみの果て」で、アフリカの少数民族の族長が言う「水は誰のものでもない」という印象的な台詞があるが、かつて我々の祖先は自覚と自制を持って自然の恵みを「借り」ていたのだと思う。
たぶんこの映画で一番印象的なのはアリエッティとパパエッティの「借り」のシーンだと思うが、「狩り」に模したあの冒険を「借り」と呼んでいることこそは、その自嘲の感情の現れなのではないだろうか。
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