2014年2月20日木曜日

ラリー・カールトンとデヴィッド・T・ウォーカーの札幌公演に行ってきた

昨日は、ラリー・カールトンとデヴィッド・T・ウォーカーの札幌公演に出かけた。
場所は2008年に出来たという札幌市民ホールで、初めて入った。

なにしろ大通駅至近というロケーションが、こんな雪道にはありがたい。

当たり前だが、比較的観客の年齢層が高め。
ギターを自分でも弾く人が多いのだろう。ステージ上の機材をみんなで盛大に撮影していた。
入り口でカメラチェックもなかったので、今日は撮影オッケーなんだなと思っていたら、慌ててホールの人が飛んできて撮影禁止です、と叫んでいた。
その直後、館内放送でも撮影と飲食の禁止を伝えるアナウンスが流れた。
僕の隣でサンドイッチを食べていたカップルが慌てて食べかけのサンドイッチを袋にしまっていた。

ラリー・カールトンのアンプといえばダンブルだが、今日はダンブル系の音が出て、比較的入手しやすいブルードが置かれていた。

デヴィッドの方は、フェンダーの小さなアンプ。ブルース・デヴィルに似ていたな。

演奏はラリーのソロ・ギターから始まった。
なにかこう、全部の弦の音が出きっていないように感じる。
弱音がPAに乗ってこない感じで、全体に音量が低めにセットされているようだ。

3曲目から、ベース(ラリーの息子です)、ドラムスが入ってきて、トリオでの演奏になる。 ここでもドラムスの音がPAに乗っていない。
バンドをドライブしない。

まいったな、と思って聴いていると、いよいよデヴィッドの登場で、合わせてキーボードとサキソフォンも追加された。

デヴィッドの音はもともと繊細で、弱音のニュアンスが重要だ。
今日のPAには、おそらく乗ってこないだろうと思ったが、まったくその通りで、ちっとも聴こえてこない。
しかしデヴィッド御大、しきりに自分のギターに内蔵しているプリアンプを演奏しながら調整して、曲の最後にはあの美しすぎるグリッサンドがきちんと聴こえるようになってきた。
さすがだ。

PAさんも目が醒めたのか、この曲以降徐々に各楽器のボリュームが適正になり、やっと札幌市民ホールにグルーブが戻ってきた。

バランスが取れてみると、ラリーとデヴィッドのバッキングの異なりが際立ってくる。

ラリーカールトンは、ソロを弾いていなくても、バッキングについキャッチーなフレーズを盛り込んで、そこだけで聴かせてしまう。
主役の声しか出せない声優というのが世の中にはいるのだが、ラリーカールトンもギターもそれによく似ている。

デヴィッドのバッキングは、それだけで楽曲の背骨を担うことはできない。
しかし、あの複雑なトリルを絡めながら上昇、下降と自由自在のグリッサンドは、まさに彼のシグニチャー・サウンドで、大昔のソロ期にすでに完璧に完成されていた。
さらに、普通にコードを弾くようなところでも、素早い装飾音をキラキラと輝かせる。

公演の間中、僕はデヴィッドの魔法のように動く指に釘付けだった。

そういう意味で、相性が良く、まことに見応えのある共演だが、この二人の共演歴は古く、1975年、マリーナ・ショウの名盤中の名盤「Who is this bitch,aniyway」収録のFeel like makin' loveが最初だと思われる。 帰って聴き直してみると、ホント二人ともあの頃からプレイスタイルまったく変わってないことがわかる。

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それにしてもこの、ロバータ・フラック作のフィール・ライク・メイキン・ラブ、今改めて聴くとすごい歌詞だ。

夕方公園を歩いていると恋人たちの「行為」が目に入る。そんな時、わたしはあなたとしたくなる。

それだけの歌だ。
こういう歌を自分で作って人前で歌う感覚は僕には理解できないが、二人のギターは本当に素晴らしい。


僕は、ラリーカールトン最大のヒット曲であるルーム335が、公演の最大のハイライトになるだろうと思っていたが、なぜかこの曲のみトリオに戻っての演奏となった。

複雑なコード・チェンジが身上のこの曲で、コード感を辛うじて息子くんのベースが作っているが、やはりあの独特の洗練は出てこない。
ちょっと残念な335ではあった。
その代わりってわけじゃないけど、ブルーズになると、もう年齢すらも若返ってしまった感じでノリノリで弾いていたなあ。
ギタリストというやつは俄然いきいきするものだが、この二人も例外ではなかったようだ。

2014年2月18日火曜日

場違いな場所に立つ歌

ホイットニー・ヒューストンが、映画「ボディガード」で歌った、I Will Always Love Youという名唱がある。

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静かな歌い出しの後、優しく伸びるファルセットで、And I,I,I I always love you.と歌われる。
切々とした情感を維持した美しい間奏の後、つかの間のブレイクが入り、スネアドラムの一閃とともに転調されたサビが、ホイットニーの絶唱によって歌われる。
再びのAnd I,I,I I always love you.が、今度は万感の愛のメッセージとして届けられる。

このダイナミックな展開は、結婚式の披露宴でカップルが登場するのにぴったりだ。
だから、その後「日本においては」無数の結婚式でこの曲が使われたと思う。

この曲は、カントリー系のシンガー・ソング・ライター、ドリー・パートンの作品でアルバム「ジョリーン」に収録されている。

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そう、あのオリヴィア・ニュートン・ジョンの「ジョリーン」もこの人の作品なのである。

そしてこの「I Will Always Love You」こそは、ジョリーンに対置され、このアルバムのもう一方のコアとなるべく書かれた楽曲なのであった。

ジョリーンは、主人の浮気相手に、「わたしは美しさであなたには敵わないけど、主人はわたしにとっては一生の恋なの。どうか面白半分に奪わないで」と切実に訴えかける歌で、歌詞全文を読むと、もうわかったわよ、となりそうな誠意に溢れている。

そして「I Will Always Love You」は、このように歌い出される


If I should stay, I'll only be in your way
So I'll go, but I know I'll think of you every step of the way

これ以上一緒にいたら足手まといになる
だからもう行くわ
でもわかってる。
きっと一足ごとに貴方を想うってこと


そう、この曲は、条件の良い結婚話が持ち上がった年来の彼氏のもとから、愛ゆえにそっと身を引く女の心情を歌ったものなのだ。


「ジョリーン」に描かれた心情も、「I Will Always Love You」に描かれた心情も女性の愛の表現として、どちらも心に迫るものだ。
ドリー・パートンは、このふたつの曲をコアにアルバムを構成することで、アメリカの女性の恋を立体的に描いたのだ。

しかし、だ。
「I Will Always Love You」は、歌詞の意味がわかってしまうと、これほど結婚式の披露宴に似つかわしくない曲もない。

でもいいのだ。
音楽には、歌詞とメロディとアレンジがあり、その全体でひとつの「表現」を構成しているから、このような場違いな場所に、奇妙な存在感を持って成立してしまう時がある。


似たような不思議な成立を見せる楽曲にブルース・スプリングスティーンの「Born in the U.S.A」がある。

この案件は、村上春樹がステレオサウンド誌に書いていて、今は文春文庫にも収録されているので、お読みになった方もいらっしゃるかもしれない。

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この歌はアルバム「Born in the U.S.A」のタイトルトラックで、大きな星条旗をあしらったジャケットのイメージと相まってアメリカへの愛国心みたいなものを想起させる。

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ロナルド・レーガンの選挙スタッフもそう思ったのだろう。
この曲を大統領選挙のキャンペーンソングに使わせてほしいとオファーした。
結果的に、この曲を使った選挙キャンペーンは成功し、「Born in the U.S.A」はアメリカを讃える歌として機能した。

スプリングスティーンはおおいに戸惑っただろう。
何しろ、この曲はこういう歌詞を持っているのだ。


Born down in a dead man town
The first kick I took was when I hit the ground
You end up like a dog that's been beat too much
Till you spend half your life just covering up

Born in the u.s.a., I was born in the u.s.a.
I was born in the u.s.a., born in the u.s.a.

救いのない街に生まれ、蹴飛ばされながら生きてきた
殴られどおしの犬のように、一生は終わる
身を守ることだけに汲々としながら

僕はそんな国アメリカに生まれてしまった。
それがアメリカに生きるってことなんだ


どこから見ても愛国的な歌詞ではない。
ホイットニーのラブソングを日本の結婚式に使うのは、まあそういうこともあるか、という感じだが、スプリングスティーンの場合には自分の国の国民が、まったく自分の意図と違う楽曲の捉え方をされたのだから、本当に驚き戸惑ったと思う。


ビリー・ジョエルもキャリアの上り坂でこのような案件に出会った。
それはアルバム「ストレンジャー」に収録された「Only The Good Die young」という曲だ。

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その曲はこのように始まる。

Come out Virginia, don't let me wait.
You Catholic girls start much too late.

こっちにおいでよ、ヴァージニア(この女性が処女であることを示唆している、もちろん)僕を待たせるなよ
君たちカトリックの女の子たちって、もったいぶるよね


つまり、ある種の教条主義に縛られがちな品行方正な淑女を、もっと楽しまないと、と説得する歌なのである。Only the good die young、つまり善人ばかりが早く死ぬっていうじゃないか、と。

この曲はカトリック協会の強い反発を招き、ラジオ局には圧力がかかった。
そしてかの国には何曲もある放送禁止曲の仲間入りをしたのである。
しかし、この曲が伝えたかったのは、カトリックが大切にしている清貧で禁欲的な生活への揶揄ではなかった。


They say there's a heaven for those who will wait.
Some say it's better, but I say it ain't.
I'd rather laugh with the sinners than cry with the saints,
the sinners are much more fun.


天国はそれを望む者のためにあるという
それが素晴らしいとは、僕には言えない
聖人と泣くのなら、罪人と笑いたい

 ビリー・ジョエルが伝えたかったことはここにある。
聖人と泣く、には自分とは考え方の違う人達を否定して生きていくことの虚しさが、
罪人と笑う、には何より大切な「自分らしく」生きていく、ということにつきまとう責任のことが歌い込まれている。


普段なにげなく口ずさんでいる歌詞の中には、時に驚くほど大きな意思が込められていることがある。
それは最初からそこにあるのに、メロディの甘美さに隠されて、長い時間見つけられないまま、僕らと一緒にいたりする。

(それがたとえカラオケであっても)歌を歌う者のひとりとして、いつも肝に命じていたいと思う。

2014年2月16日日曜日

レコード・バイヤーズ・ダイヤリー

レコード・バイヤーズ・ダイヤリーという本がむちゃくちゃ面白い。


皆さんは中古レコード店で売っているレコードが、どこから仕入れられているかご存知だろうか。
一般の方にも馴染みの深い、古書店は、自分たちも本を売りに行くこともあるから、中古レコード店と聞いて、それはみんなが聴かなくなったレコードを買い取って、それを販売しているのだろうと思うだろう。
もちろんそれもある。
しかしこの時代にそのような集め方で商売になるような品揃えはまず出来ない。

多くの中古レコード店では、アメリカやヨーロッパの中古レコード店に買い付けに行っているのである。
まあ、そこまでは知っていた。
しかし、その実態といえば、それこそやってみなければわからない世界でとても興味があった。

なぜなら、このブログにGirasole Recordsという名前を付けているように、僕は心の中に架空の中古レコード店を持っていて、いつもその夢の世界で遊んでいる人間だからだ。呼びたければどうぞDreamerと呼んで欲しい。
この程度のシステムでは、レコードバイヤーにはきっとなれない
DENON DP-500MにテクニカのAT-150LMX
コンパクトで飾り気のないキャビネットが気に入っている

その意味では、こんな本など読まないほうが、架空の中古レコード店を夢の中で経営するには楽しいのかも知れない。
でも一歩だけ、リアルな方向に足を進めてもいいかもな、と思いこの本を手にとった。

コレクションも現状300枚程度の微々たるもの
それでも聴ききれない。みんなどうしてるの?

この本は、レコードへの愛のみにて生きる店主が、無計画に海外で買い付けを行う際に発生するトラブルを楽しむ趣向になっているため、まず背景になる部分だけ補っておこう。


まず、レコード文化の全盛期、日本は高度経済成長期にあった。だから人は概ね一生懸命働いていて、音楽にうつつを抜かせる人はそんなに多くはなかった。
同じ頃文化の発祥の地である欧米では、レコードという複製文化が発達する前から演奏会などで音楽を楽しむ風土があった。
しかしそれはいかんせん金持ちの趣味であったから、その複製が安価に手に入るレコードの発売は、家庭が娯楽の中心であった一般市民たちにとって福音であり、市場に大量のレコードが溢れた。
レコードは、なぜか男の収集マインドをくすぐる性質がある。
世界にはジャズやクラシックのレコードを屋敷いっぱい収集するコレクターも現れた。
村上春樹の短編には、そういう(実在の)ジャズレコード・コレクターの家で留守番を頼まれる「レキシントンの幽霊」という話がある。


しかし、ディジタル技術の革新で、コンパクトディスク=CDが登場し、コレクターはレコードを保持してはいたが、彼らの子どもたちは最初からCDで音楽を聴いた。
そして時は流れ、レコードコレクターたちも老い、亡くなっていく。
海外のニュースを注意深く見ていると、著名人が亡くなって、屋敷から大量のレコードコレクションが発見され、遺族が処理に困って、どこそこのレコード店に査定させてみるとウン百万ドル分だった、みたいなニュースを見つけることができる。

一般の人たちだって多くのレコードを家に持っていた人は多いだろう。
昨今のインターネットで音楽ソフトが配信されてしまう時代になって、一気のそれらのコレクションも市場に出てきている。

そのようにして、アメリカには、ちょっと我々には想像もつかないような巨大な中古レコード店があるのだそうだ。
この本では、買い付けにとロサンゼルスに飛び、毎日毎日レコード店に通い一日300枚近いレコードを買って、日本から持ち込んだダンボールに梱包し何千枚というレコードを国際宅配便で送るという日々が綴られている。

驚いたのは、ポータブルのレコードプレーヤーを持ち込んで、勝手に試聴するんだそうで、アメリカっちゅうのはおおらかな国ですな。

なにしろアメリカの中古レコードは30円くらいのものから、だいたい100円くらいのものが多く、「アメリカでの」人気盤が2000円程度。
アメリカでは人気がなく、100円で買った盤が日本ではそのレア度から人気を博していて5000円以上で売れるというタイトルもあるのだそうだ。
そういうマジック・タイトルを知っているかどうかがこのビジネスの肝なんですね。

この著者とはまったく違うスタイルと採っている中古レコード店主も何人か知っている。
一枚10万円近くで売れる、評価の定まった盤というのがあるのだが、とにかくそれを10枚探すために出かける、というタイプの人だ。
この場合は、ドイツあたりの古くからあるレコード店との関係を構築して、日常的に自分のための良盤をキープしておいてもらうことがキーになる。

しかしまあ、一回に300枚のレコード持って、レジに並ぶってのも大変だろうなあ、と思う次第で、しかし、10万円のレコードしか売ってない店ってのも僕の趣味じゃないな、と思ったりもするわけで、やはり中古レコード店の経営は妄想の中に置いておいたほうがいいのかな、というのが正直なところです。

2014年2月10日月曜日

文学の受難の時代


最近ネットで話題の中学生が書いたという、太宰の「走れメロス」のメロスは実は走っていなかったという論考を最初読んだ時、面白いことを考える子もいるもんだな、と思った。


 微笑ましいこの小さな才能をみんなでシェアして楽しむのも悪くない風情に感じた。

そして、さらに叶うなら、文学を愛する者の立場から、大人になってしまった僕達がもう一度メロスを読む絶好の機会になるともっといい、と思っている。

そして、その時こそはこの少年の労作のことは忘れていただきたい。
メロスが妹の村に向かう場面を太宰はこう書いている。

「メロスはその夜、一睡もせず十里の路を急ぎに急いで、村へ到着したのは、翌あくる日の午前、陽は既に高く昇って、村人たちは野に出て仕事をはじめていた。メロスの十六の妹も、きょうは兄の代りに羊群の番をしていた。よろめいて歩いて来る兄の、疲労困憊(こんぱい)の姿を見つけて驚いた。」

 実際には急ぎ足に歩いても充分着く距離を踏破したメロスが、体力がないせいかよろめいている、と読むべきではない、と僕は思う。

ぜひ、今一度、冒頭にある、王とメロスとの諍いの場面。その王のセリフに注目してご再読いただきたい。(僕はこの冒頭部こそが走れメロスの最重要部と思っています)

 大人になった今、この王の気持には共感出来る部分がある。
むろん残虐な暴君を認めるわけではないが、
「仕方の無いやつじゃ。おまえには、わしの孤独がわからぬ。疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」
という王の言葉に、なにか思うに任せない社会というものへの諦めのようなものを感じ、他人事には思われないのだ。

そして、それを許せないメロスの「青臭さ」が、彼を走らせている。
友の命をかけてまで走らせている。
だから彼の走りは「燃焼」であり、「焦燥」なのだ。
そこに計算は、きっとないのだ。

太宰は、そのような男としてメロスを描いたのだ。

そして、同時に確かに太宰には、このような距離と速度と時間の関係について「計算」をしておく義務があったように、僕も思う。
この論考を書いた中学生が発動した一級のユーモアに身を委ねて、文学を読む態度についての考察ができた。
だが、こちらはユーモアでは済まない。
村上春樹が文藝春秋誌に掲載した短編「ドライブ・マイ・カー」の一件だ。
小説内で、北海道中頓別町出身の女性が、車窓から火のついたたばこを外に投げ捨て、主人公が「たぶん中頓別町ではみんなが普通にやっていることなのだろう」と思う場面が描かれていたのだそうだ。
これに中頓別町議が抗議。
ノーベル文学賞候補となる作家が事実と異なることを小説にしたことが町のイメージダウンにつながり、このまま放置すれば、本町への偏見と誤解が広がる訳ですから、作家に遺憾の意を伝え、なんらかの対処を求めることの緊急性は高いと思います。

活字化の事実を知りながら公式には何もしないということは、不本意な表現を認めることになります。環境美化や交通安全に励む町の代表である議員や首長は、こうした問題に敏感に反応すべきでしょう。

と述べている。
この発言からは、常に他者の失点を探して、自分の得点を上げることが求められる現代の病のようなものが感じられるが、それ以上に、文学を読む<態度>というものが、この国から決定的に失われ始めている危機感を感じる。

小説から該当の箇所を抜き出してみる。
北海道中頓別町出身の女性が、車窓から火のついたたばこを外に投げ捨て、主人公が「たぶん中頓別町ではみんなが普通にやっていることなのだろう」と思う
さて、この文中に、「中頓別町で、たばこを投げ捨てている人」は登場しているだろうか。
もちろんしていない。
この「ドライブ・マイ・カー」という短編小説を、小説として読んだ時、中頓別町に悪いイメージを抱く人はいないだろう。
分析的に読まなくたって、中頓別町の何かの瑕疵があって、住民たちにたばこのポイ捨てをさせる、というようなことがそもそも書かれていないことはすぐわかる。
よっぽど悪意のある読者でなければそのような言いがかりを付けはしないだろう。
だが、中頓別町の関係者だけは、中頓別町の内実についてそれぞれ思うところを持っていて、その内実が、この短編小説の「中頓別町」という単語に強く結びついて、読み方が変わってしまう。
文学とはそういうものなのである。
とはいえ、それは読み違いであることには変わりなく、こういう読み違いをしないために、我々は教育というものを受けているはずだが、その教育にも実効がなかったということなのだろう。
日本人の読書時間は極限まで減っているようだし。
そしてその結果として、このようないいがかりがまかり通るのである。
だから町議の懸念は見当違いだとは思うが、それでもこれからは実在の町名で小説を書くことは控えたほうがいいのかもしれない。
だって、これが出版されたら、けっこうな人数が、北海道旅行のついでに中頓別町に行って、レンタカーの窓から火のついたままのたばこを投げ捨てて、写真をとって、「中頓別町で、たばこを投げ捨てているなう」とかやりそうな気がするもの。

村上春樹氏は、単行本化の際、町名を変更する旨を発言しており、事実上事態は沈静化したと言えるだろう。
文学の受難の時代は続く。
まいったね。

2014年2月6日木曜日

小林秀雄に音楽の聴き方も学んでみる

小林秀雄対話集「直感を磨くもの」には、最近NHKでもドラマ化された「薄桜記」の作者で芥川賞作家、柳生十兵衛などの剣豪小説で有名な五味康祐氏との対談も収録されている。

僕は自分の今使っているシステムを組む時に、調べに調べて、聴きに聴いて、結局アンプにMcIntoshの真空管アンプ、スピーカーにTannoyを選んだ。


偶然にもメーカーだけ見れば、これは五味康祐氏が晩年に愛用したシステムと同じで、そのシステムは今、練馬区によって保管されていて、定期的にレコード演奏会を開いて今も音楽を奏でているという。


だから、ということはないだろうか、この対談は読むたびに胸が痛い。

時代を代表する評論である「モーツァルト」を著した音楽通である小林に、五味先生は一生懸命オーディオの難しさを語ろうとする。

五味先生は、音楽やオーディオに関する著作も多く、いくつかは読んだ。
中公文庫の「いい音、いい音楽」には、オーディオ仲間の部屋を訪れては、高価で凝りに凝った装置群が、どれも酷い音を出していると嘆いている様子が何度も描かれている。

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五味は、小林にもその例を引き、「つまり千人のハイフェッツがレコードの世界にはいる、ということなのでしょうか」と問いかけるが、それに対し小林は、あるところから先は「慣れ」の問題と言い、音の良し悪しを言葉で語ることの虚しさを突きつけるのだ。

「耳のオーガニズムが、音響のメカニズムにいつも順応するわけではない。機械がこういう音を出すはずだと言ったって、聴くか聴かないかはこっちの勝手。そういうことですよ」

また、「機械にしても、理論というのは一般的なものでも、作るのはひとつのものでしょう。たった一つの。必ず同じものはできませんよ。二つ同じスピーカーはできませんよ。とも言い、「蓄音機が一つの音を出すということは、やっぱり一つの歴史的事件なのであって、二度と繰り返されないよ。二度と同じ音は出ないと割りきってはいかんですかな」と、諌めようとする。

そしてしばらくの無言のあと(対談では・・・・・、と記されている)「あなたは、本当にそういうことが面白いんだね」と言葉をかけた。


そして、この流れに五味さんは「決して面白くありません」と返答したのだ。
どう見ても、これは揶揄だ。そこに真正面からの返答をしたということは、おそらく五味さんは、本当に昨日と同じ音が出ないことが苦しかったのだと思う。
小林は、ここで初めて五味の心情を正しく捉えた。
そして、それを「囚われている」と感じたのではないだろうか。

だからこそ小林の言葉は攻撃色を強めていく。
「それでケチをつけている。いつでもケチをつける。これはステレオに対するきみの態度の表れだ。態度が表れるのだ」
「あなたがそのときに聴いているのは、楽音ではなくて雑音かもしれないよ。雑音がないかと耳を澄ましている」
「音楽をそういう音として扱っているとしたら、こんな傲慢無礼なことはないよ」

遠慮ない物言いが持ち味の小林秀雄でも、これほど攻撃的な言葉はそうお目にかかれない。
そしてこれがいちいち、自分の音楽の聴き方に共通するところがあり、心が痛いのだ。
心が痛いのは、小林の言葉が真理の一面を衝いているからだと思う。

昔ビクターがやったという、カーテンの後ろにオーケストラとオーディオセットを隠して、どちらの音がナマの音かわかるかを試すブラインドテストに話題が及んで、小林はこういう。

「ナマの音」なんてものはないんだよ。
音楽会に行けばこれから音楽がはじまるという期待を持っている。
ある一つの雰囲気の中の、ぼくらの全体の肉体のひとつの態度よ。
それがぼくの耳を、聴覚を決めてしまうのよ。
たしかに実物を聴いているという態度があるだけなんだよ。
耳は原音をなぞるものではない。
耳はカートリッジではないという事が言いたいまでです。
巨大な音の世界というものが存在します。
僕らの意識は、その巨大な自然の音の世界のほんの一部で、共鳴を起こしながら生きている。
そして音を発見し、創造もしている。
それが耳の智慧だろう。

ここが、小林の音楽を聴く態度の起点なのだろう。
なるほどと頷くしかない。

そして五味先生は実は音楽を心から愛しているが、片耳がほとんど聞こえないのだ。
そのため、人が聴いているいい音が自分に聞こえていないのではないかという不安と常に戦っていたのである。
「耳が創造する」という言葉を聞いて、五味先生は何かを感じたようだった。

小林もそれを感じ取って、Beethovenが聴力を失ったあとも素晴らしい音楽を作り続けたのは聴力がある時に、「精神」で音楽を聴いていたからだと言った。


故人、大瀧詠一は、無人島に1枚だけレコードを持って行くなら何にするかという雑誌のアンケートで、「レコードリサーチ」というカタログの1962~66年を持って行くと答えたそうだ。
全曲思い出せるから、ヒットチャートを頭の中で鳴らしながら一生暮らすことができる、と。

どうすればそのような境地に辿り着けるか、想像もつかないが、今日からは雑音を探すような聴き方をやめて、今までの自分を信じて、耳の創造するままに音楽に身を委ねてみたいと思う。

2014年2月1日土曜日

アガサ・クリスティ「なぜエヴァンズに頼まなかったのか?」

米澤穂信の「古典部シリーズ」は原作もいいが、京都アニメーションの渾身のアニメ化が素晴らしいわけで、もちろん全作読破&視聴している。

原作での第二作にあたる「愚者のエンドロール」は、学園祭の出し物に自主制作された映画が、結末部の撮影前に脚本担当の女生徒が倒れてしまうという事態に、みんなで脚本家の意図した真の結末を推理するというお話だ。

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筆者はあとがきにて、バークリーの「毒入りチョコレート事件」と我孫子武丸の「探偵映画」からの影響を認めているが、サブタイトルには「Why didn't she ask EBA?」と記しており、これはアガサ・クリスティの「Why didn't they ask Evans?」(なぜエヴァンズに頼まなかったのか?)から名付けられている。


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ストーリーには影響を受けていないと明言されているが、この、なぜエヴァンズに頼まなかったのか?というタイトル。
なんとも気になるではないか(古典部だけに)。


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というわけで、久しぶりにクリスティを読んでみたのだが、これ無名の作と思ってたけど、実に面白い。

お転婆な貴族の少女フランキーが実にいきいきしてるし、これに純真な鈍感少年がセットになってて、もう現代のライトノベルに遜色ないヒット性の高いキャラクター造形がとてもいい。

二転三転していくプロットも、これぞ推理小説!という感じでドキドキするし、何気ない証拠から思いがけない真相を思いつかれた時に、やられた!と思うのが真の本格魂というものである。
クリスティ、やっぱすごいな、と思って見ると、本作はあのオリエント急行殺人事件と同年の作。納得の筆さばき。ノリにノッてるわ。

爽快このうえないラストも含め、読後もずっと手元においておきたい愛着ある一作となりました。