少し前に、北海道新聞のコラムでカフカの『掟の門前』が紹介されていた。
読んだことがなかったので、光文社古典新訳文庫で買ってみた。
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タイトルは『掟の前で』となっていた。
読めば、門前の方が内容に相応しい気がしたが、門自体が「思い込み」のメタファーであることを考えれば、『掟の前で』の翻訳意図も理解できる。
併録されている『アカデミーで報告する』も多様な解釈を許す短編で、『掟の前で』と併せて読むことで、カフカの人間あるいは社会に対しての基本的姿勢のようなものを、ぼんやりと形作っているように感じられた。
そしてその2篇を膠のように『変身』と繋ぎ止める『判決』。
この4篇でこの本は構成されている。
最も長い『変身』は何度も読んだ作品だが、今回もまた、以前とは全く異なる印象を残した。
直前、直後の読書、それまでの人生の経験。そういうもので本から感じ取る風景は全く異なるものになる。それが読書というものだと思う。
ところで、最近ニュースを騒がせているChatGPT。この優れたAIを使って読書感想文を書いた学生を処罰するというニュースが流れた。
カフカを読んで、しみじみとした人生の奥深さを覗き込んだ直後にこのようなニュースに接すると、まことにどうでも良いことに思える。
感想文に点数をつけて評価をすることが目的になっているからAIなんぞに書かれては困るのであって、教育の場での本当の目的は、読書感想文をクラスで共有して、人間の感性のしなやかさや、環境の違いによる考え方の相違を受け止める柔らかさを学ぶことだろう。
教育の世界にChatGPTが突きつけたのは、「評価」ができるような成果物はもうコンピュータで作れてしまう、ということだ。
そしてそのような「評価」を前提とした設問は、すでにビジネスの社会には存在せず、誰もみたことのない課題に、どんなものの力でも借りながら挑んでいくことが求められている。
そして、まさにその壁を、はるか1910年代に描いたのがカフカであった。本当に大切なことは、どのようにしてでも学べるものだ。初等・中等教育はそのための成功体験を人工的に体験できるシミュレーションの場として機能させて欲しいものだ。
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