核心に触れているかどうかは別として、物語の全体に言及しているのでご注意いただきたい。
それにこの記録は、必ずしも読むかどうか悩んでいる人にとっては、有益な情報ではないと思う。
村上 春樹
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村上春樹は、『海辺のカフカ』『1Q84』と、それまで書かなかった「父」について取り上げ、 続く長編『多崎つくると、彼の巡礼の年』では、「変容する父性」について言及している。
直近の(といっても4年前の)長編である『多崎つくる』は、本作『騎士団長殺し』を読み解くために必要な道標になるはずなので、簡単に振り返っておく。
裸一貫で起業し、経済的成功を収め、一日50本の煙草とともにその人生を驀進し、肺がんのために言葉を失い、時計(=ホイヤー)を残して死んでいったつくるの父親と、それとは対比的に描かれる、緑豊かなフィンランドの別荘地で半日を陶芸家として、半日を家庭人として、時に自分の技術を大学で教えながらシンプルに生きていくハアタイネン氏。
対照的に見えるが、息子のつくるに父の残した時計(ホイヤー)は、そのメーカーの創業者の名を「ハアタイネン」という。
日本の高度経済成長を牽引した世代も、心には、家庭を大事にし、自分のために時間を使う生活へのあこがれを抱いて、息子たちの世代ではそれを実現させてあげたいという心があった、というメタファーではなかったか。
そして、そのギフトを得た世代が、今度は父になったとき直面する様々な問題。
それが『多崎つくると、彼の巡礼の年』であった、というのが私の見立てであった。
本作『騎士団長殺し』は、『多崎つくる』のリアリズム文体では描ききれなかった「父性」の問題に、ねじまき鳥的(1Q84的でも、まあなんでもいいのだが、そっち系の)村上話法で「肉体」を与えた作品、と読んだ。
「私」に離婚を切り出す妻の「ユズ」という名は、『多崎つくる』でのハアタイネン氏の妻の名でもある。
その妻は『1Q84』ですっかりお馴染みの時空を超えた性交で、娘を授かる。
いくつかのレビューで、ラストで「私」がユズのもとに戻るのに納得がいかない、というのを見かけたが、「私」が戻って父となることで、このメタファーが一段実体感を増すのである。
それに納得いかないと言っても仕方がない。なにしろ、これは事件の数年後から振り返って書いている本で、本編がはじまってわずか2ページ目に「元の鞘に収まった」と書いてあるのだから。
この物語にはもう一組父娘がいて、それが免色とまりえである。
高性能な軍事用双眼鏡と叔母を通じてつながる父娘。
どちらも典型的とは言い難い親子関係だが、それらは父側からのとても深い愛情を持つものとして描かれている。
彼らの父の世代が子どもたちの世代(つまり主人公たち)に注いでいたのも、たとえそうは見えなくても同じように深い愛情で、そしてそれは自分のための何か(時間や、趣味に生きる可能性などだろう)を犠牲にすることによって、より強固な愛情となっていたのではないか。
だとすると、現代の父親は何を犠牲に差し出せばいいのか。
それが本作『騎士団長殺し』という物語が内包する大きな問いだと思う。
「私」は騎士団長を殺すことによって、それを得たのだろう。
免色は、おそらく、まりえの言う「イフク」を処理することによって、それを得るのではないかと予想していたが、そこまでは描かれていなかった。
第三部があるかもしれない、と感じる個人的根拠のひとつである。
東日本大震災による大きな喪失も、その「犠牲」に繋がっていると思う。
物語が東北への放浪の旅であったこと、そしてラストに来て、震災でそれらが破壊されていく様から立ち直っていく過程で、「私」が新しい未来を手に入れていく。
世代間で異なる「犠牲」と未来の関係について、もうひとつ大きな視点からみた構造だ。
高度経済成長そのものが、戦争に突き進んでいった日本という国が破滅していくという大きな犠牲から生まれたものである、というのが『多崎つくる』で示された犠牲と未来の構造だった。
そう考えると、一部の政治勢力によって現在少しづつ進められているように見える歴史の修正は、それをなかったことにしようとする試みにも思えてくる。
さらに、戦争での犠牲者に対して意識的な人ほど、その犠牲を生んでしまった過ちをなかったことにしようとする傾向にあることは、僕にはとても皮肉なことに思える。
本作『騎士団長殺し』で免色に南京大虐殺に言及させたことは、このあたりに関係があると思う。
政治的発言というよりは、払われた犠牲に対する敬意として、それはどうしても書かれなければならなかったことなのだろう。
東日本大震災をこの物語に組み込んだことも、この問題意識と繋がっていると思う。
過去の戦争と同じように、震災やそれに続く原子力発電所の事故でさえ、言葉では悼んでいても、政策的に見ればまるでなかったことにしようとしているように感じられる。
それは、まさに犠牲と未来にまつわる現代の問題なのだ。
僕たちはこれに当事者として向き合わなければならない。
当事者として向き合う。
これこそが、フィクションを読むということの本質なのだから。