2017年3月30日木曜日

【ネタバレ全開注意】村上春樹『騎士団長殺し』に描かれた犠牲と未来の不可分な関係

『騎士団長殺し』を読んだので、読書記録として記す。
核心に触れているかどうかは別として、物語の全体に言及しているのでご注意いただきたい。
それにこの記録は、必ずしも読むかどうか悩んでいる人にとっては、有益な情報ではないと思う。

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騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編
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村上春樹は、『海辺のカフカ』『1Q84』と、それまで書かなかった「父」について取り上げ、 続く長編『多崎つくると、彼の巡礼の年』では、「変容する父性」について言及している。
直近の(といっても4年前の)長編である『多崎つくる』は、本作『騎士団長殺し』を読み解くために必要な道標になるはずなので、簡単に振り返っておく。

裸一貫で起業し、経済的成功を収め、一日50本の煙草とともにその人生を驀進し、肺がんのために言葉を失い、時計(=ホイヤー)を残して死んでいったつくるの父親と、それとは対比的に描かれる、緑豊かなフィンランドの別荘地で半日を陶芸家として、半日を家庭人として、時に自分の技術を大学で教えながらシンプルに生きていくハアタイネン氏。

対照的に見えるが、息子のつくるに父の残した時計(ホイヤー)は、そのメーカーの創業者の名を「ハアタイネン」という。
日本の高度経済成長を牽引した世代も、心には、家庭を大事にし、自分のために時間を使う生活へのあこがれを抱いて、息子たちの世代ではそれを実現させてあげたいという心があった、というメタファーではなかったか。
そして、そのギフトを得た世代が、今度は父になったとき直面する様々な問題。
それが『多崎つくると、彼の巡礼の年』であった、というのが私の見立てであった。


本作『騎士団長殺し』は、『多崎つくる』のリアリズム文体では描ききれなかった「父性」の問題に、ねじまき鳥的(1Q84的でも、まあなんでもいいのだが、そっち系の)村上話法で「肉体」を与えた作品、と読んだ。

「私」に離婚を切り出す妻の「ユズ」という名は、『多崎つくる』でのハアタイネン氏の妻の名でもある。
その妻は『1Q84』ですっかりお馴染みの時空を超えた性交で、娘を授かる。
いくつかのレビューで、ラストで「私」がユズのもとに戻るのに納得がいかない、というのを見かけたが、「私」が戻って父となることで、このメタファーが一段実体感を増すのである。
それに納得いかないと言っても仕方がない。なにしろ、これは事件の数年後から振り返って書いている本で、本編がはじまってわずか2ページ目に「元の鞘に収まった」と書いてあるのだから。

この物語にはもう一組父娘がいて、それが免色とまりえである。
高性能な軍事用双眼鏡と叔母を通じてつながる父娘。

どちらも典型的とは言い難い親子関係だが、それらは父側からのとても深い愛情を持つものとして描かれている。
彼らの父の世代が子どもたちの世代(つまり主人公たち)に注いでいたのも、たとえそうは見えなくても同じように深い愛情で、そしてそれは自分のための何か(時間や、趣味に生きる可能性などだろう)を犠牲にすることによって、より強固な愛情となっていたのではないか。
だとすると、現代の父親は何を犠牲に差し出せばいいのか。
それが本作『騎士団長殺し』という物語が内包する大きな問いだと思う。

「私」は騎士団長を殺すことによって、それを得たのだろう。
免色は、おそらく、まりえの言う「イフク」を処理することによって、それを得るのではないかと予想していたが、そこまでは描かれていなかった。
第三部があるかもしれない、と感じる個人的根拠のひとつである。

東日本大震災による大きな喪失も、その「犠牲」に繋がっていると思う。
物語が東北への放浪の旅であったこと、そしてラストに来て、震災でそれらが破壊されていく様から立ち直っていく過程で、「私」が新しい未来を手に入れていく。
世代間で異なる「犠牲」と未来の関係について、もうひとつ大きな視点からみた構造だ。

高度経済成長そのものが、戦争に突き進んでいった日本という国が破滅していくという大きな犠牲から生まれたものである、というのが『多崎つくる』で示された犠牲と未来の構造だった。
 そう考えると、一部の政治勢力によって現在少しづつ進められているように見える歴史の修正は、それをなかったことにしようとする試みにも思えてくる。
さらに、戦争での犠牲者に対して意識的な人ほど、その犠牲を生んでしまった過ちをなかったことにしようとする傾向にあることは、僕にはとても皮肉なことに思える。

本作『騎士団長殺し』で免色に南京大虐殺に言及させたことは、このあたりに関係があると思う。
政治的発言というよりは、払われた犠牲に対する敬意として、それはどうしても書かれなければならなかったことなのだろう。

東日本大震災をこの物語に組み込んだことも、この問題意識と繋がっていると思う。
過去の戦争と同じように、震災やそれに続く原子力発電所の事故でさえ、言葉では悼んでいても、政策的に見ればまるでなかったことにしようとしているように感じられる。
それは、まさに犠牲と未来にまつわる現代の問題なのだ。
僕たちはこれに当事者として向き合わなければならない。

当事者として向き合う。
これこそが、フィクションを読むということの本質なのだから。

2017年3月27日月曜日

結局この世界を救うのはジャズってことでいいよね~奥泉光『ビビビ・ビ・バップ』

奥泉光の新作『ビビビ・ビ・バップ』を読みました。

ビビビ・ビ・バップ
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個人的に奥泉作品の最高峰と思う『鳥類学者のファンタジア』の直接の続編ということで、あそこまでの到達度を持つ小説の続編って、いったいどうやって書くんだろう、とあれこれ想像を巡らせていたわけですが、そうきたかと。

鳥類学者のファンタジア (集英社文庫)
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前回は科学的でないほうのタイムスリップもの(前記事参照)でしたが、今回はディストピア系SFでした。


「直接の」続編と断ったのは、記念すべきクワコー登場第一作の『モーダルな事象』に、『鳥類学者』のメインヒロインであるところのフォギー1号(とあえて言っておきましょう)がちらりと登場しているからであります。

モーダルな事象―桑潟幸一助教授のスタイリッシュな生活 (文春文庫)
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が、この『モーダルな事象』、クワコーが主役かと思わせておいて、じつは単なる狂言回し。物語中で起きる主要な謎には徹底的に無関係です。
フォギーに至っては、ほぼモブの扱いですので、『鳥類学者』『クワコー・シリーズ』ともに無関係と言っていいでしょう。
しかし、『モーダル』にも『鳥類学者』にも、そして今回の『ビビビ・ビ・バップ』にも「宇宙音楽」という通奏低音が響いていて、世界観を共有する作品とはいえると思います。


『ビビビ・ビ・バップ』本編のお話に入る前に、まずは装丁に拍手。
いい仕事です。

さらに内容に触れる前に、地の文の語り口調について触れておく必要があるでしょう。
『鳥類学者のファンタジア』の素晴らしさのかなりの部分を担っているのが、長い一文をユーモラスなタッチで語り切る口調でした。フォギー視点の一人称ゆえなのですが、本作『ビビビ・ビ・バップ』では、猫型アンドロイドのドルフィー、つまりAI視点の一人称になっております。
しかもそのAIには漱石の文体がインストールされているという。
では、漱石文体なのかと言われるとそういう気もしなくて。

ではどうかと言うと、なんとなく、『鳥類学者』のフォギー口調からユーモラスな部分をちょっと引き算した感じ、というんでしょうか。
そんな感じで、そこが少し物足りないと言えなくもない。

さて、いよいよ本編について。
多少ネタバレ気味です。

VR技術が近未来の世界観の背骨になっています。
人間の意識そのものをデータ化してVR世界に降りていくというアイディアは幾多の類似先行作品がありますが、とりあえず『マトリックス』がひとつの雛形を作ったジャンルと言っていいでしょう。
ディストピアの類型ですね。
幻想を見せる技術だからディストピアと相性がいい。

というわけで、本作『ビビビ・ビ・バップ』もディストピアの類型で書かれているわけですが、科学技術が肉体性を凌駕することに、我々は本能的な気味の悪さを感じるようです。
だから、最先端の医療技術にはいつも生命に対する倫理観と背中合わせになる側面がありますが、『ビビビ・ビ・バップ』では、魂をデータ化して死後の生を実現したり、死者の思考を複製してアンドロイドで現実化するような技術が出てきます。

しかし『ビビビ・ビ・バップ』は、こういった科学の成果を人間性の敵とは断罪しない。
だからといって賛美もしない。

あくまでも流れの中で生じたものとして、その時時の、それぞれの人物の、非常に身近で実際的な価値観の中で処理されていきます。
あるものは苦笑いをして、あるものはジョークに紛らわせて、あるものはただ翻弄され、物語は進行していくのです。

そしてこのような態度で現実に対応する感じが、なんとなくビ・バップ以降のジャズに似ているなあ、と思うわけなんです。
ニュー・オーリンズで白人文化と黒人文化のぶつかり合いから生まれたジャズという音楽が、あっという間にダンスの伴奏になってしまい(スウィング)、そんな状況への演奏者たちからのカウンターとして生まれたのがビ・バップ。
だからビ・バップは逞しい。

白人音楽のメロディと、それに呼応する形で発展させられたアドリブが一体となって(コール&レスポンス)ジャズを象り、一度破壊され、アドリブ部分が純化してビ・バップとなった、というのは多少単純に図式化しすぎとしても、だからビ・バップには嘘がない。
本作でのフォギーの役どころそのものではないですか。


クワコー以降の奥泉作品はキャラがいいですね。
屍者の帝国なんぞをアニメ化する予算があるならこっちをやれよ、と言いたい。
メディア展開も楽しそうだし、副産物としてジャズが売れますよ。

なにしろ読む度に聴きたくなるから、ずいぶん懐かしいCDをかけました。
とりあえず、これは用意しておいたほうがいいかも、のドルフィー版A列車で行こうの収録盤です。

Cornell 1964
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「鳥類学者」には一周廻って滑稽に感じるほどの悲壮感があったのですが、今回はそこが希薄。
おそらくこれは作者の意図でしょう。
「個人」が希薄になった社会の行く末をこの物語は描いている。
僕はそんな気がします。

だからこのカタストロフには、決定的な悪役が存在しない。
技術の進化が必然的に生んでしまったワームホールをうまく避けられない人たちの右往左往があるだけ。
救いはジャズにある。
なんなら落語でもいいし。
そのくらいがちょうどいいんでしょう。

2017年3月7日火曜日

ヴァレリー・カーターが死んだ夜に

2017年3月3日、ヴァレリー・カーターが死んだ。64歳だったそうだ。
ヴァレリー・カーター、誰それ?という人でも、家にクリストファー・クロスの「南から来た男」はあるのではないだろうか。

このアルバムのA3に収録されているSPINNINGという曲でデュエットしているのがヴァレリー・カーターである。


全体にのどかで安定的な楽曲が並ぶこの名盤に、どこか不安定な緊張感を残す彼女の歌がこのアルバムの重要なアクセントになっていると僕は思う。

南から来た男
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彼女自身のアルバムで言えば、やはり「愛はすぐそばに」をどうしても思い出す。

ジャケ買いで買ったアルバムの一曲目が素晴らしかったら、とても嬉しい。
ドリカムのセカンドとこのアルバムがその最高の事例だ。
Ooh Childというその曲は何度繰り返し聴いたかわからない。

愛はすぐそばに
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ヴァレリー・カーター
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そして一曲目が素晴らしいアルバムのその他の曲の印象が薄くなってしまうのは、キャノンボール・アダレイの「サムシン・エルス」とこのアルバムの共通点である。
しかし聴きこんでいくと、後半に(アナログで言うとB面に)少し印象の異なる手触りの曲が二曲入っているのに気付く。
原題の「Just A Stone's Throw Away」が由来する「A Stone's Throw Away」という楽曲とそれに続く「Cowboy Angel」だ。
この二曲はプロデュースと演奏にリトル・フィートのローウェル・ジョージが参加していて、しかも「A Stone's Throw Away」は作曲がバーバラ・キースとある。

この「A Stone's Throw Away」が収録されたアルバムは僕の愛聴盤の一枚で、しかし、まったく気付かなかった。

聴き較べてみれば同じ曲だとわかるが、あまりにも印象が違う。
テネシーから夢を抱いてジョージアに出てきたが、厳しい現実と孤独に直面してしまうその葛藤を、ヴァレリー・カーター盤では、少し神経質に上下するメロディで表現するが、バーバラ・キース盤ではおおらかで力強く、あくまでもまっすぐ伸びていく歌で受け流そうとしているように聴こえる。

バーバラ・キース
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バーバラ・キース
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今夜聴いているヴァレリー・カーターは、なぜだかOoh Child以外の曲が胸に沁みる。