実は昨年末から、尿管結石の発作が出たり、転んで腰を痛めて入院したり、歯を治療しようとしたら抗生物質で妙な副作用が出て具合が悪くなったりして大変だったのですが、そういえば昨年は無精をして神社へのお参りを欠礼したりしていたなあ、などと思いあたったので2017年は、年が明けるとさっそく北海道神宮にお参りに行ったのです。
冬の神社に行くのにカメラを持っていかないはずもなく、写真を撮ってきました。
いつもにNikomat ELに、もう最近はこれしか使ってないというほど愛用しているZoom-Nikkor 43-86mmです。
2017年1月30日月曜日
2017年1月26日木曜日
ジョー・ライト『つぐない』の虚構を支えるリアルは、キーラ・ナイトレイの不自然な笑顔だと思う。
最近、ジョー・ライト監督の撮った映画をまとめて観ている。
どれも巧みな構成と、大胆な映像効果で飽きさせない秀作だったが、特に『つぐない』という作品が気に入った。
原作はイアン・マキューアンの小説『贖罪』だが、少女の付いた「嘘」が物語の核にある。
嘘なんかが核にあるもんだから、どこまで信じていいかわからないし、案の定後半にデカいどんでん返しが待っている。
こういう物語では、やはりどこか拠り所になるものがないと、感情移入の起点を持てないものだ。
ジョー・ライト監督は、彼の多くの作品に主演しているキーラ・ナイトレイに、その起点を委ねた。
この物語で確かでなければならないのは、何と言ってもセシーリアとロビーの恋だろう。
そしてその恋が確かなものだと観客が感じるのは、セシーリアの表情を見て、ロビーの心が今動いた!と感じられる瞬間があればこそだと思う。
キーラ・ナイトレイという女優は、そういう表情を持っていて、他の映画でもその必殺の表情を多用する。
一言で言ってしまえばそれは「笑顔」なのだが、キーラ・ナイトレイはふたつの笑顔を持っている。
美人顔のまま笑うと本当に綺麗なのだが、口角が綺麗に上がらず、上唇が不自然に上がる感じの笑顔をここぞという時に使うのだ。
その完璧な美貌を一瞬崩してしまうところに逆にハッとさせられてしまう。
それまで本心が見えなかったのに、不意に素顔が覗いたような感じ。
そこがいい。
日本では、桐谷美玲さんが、そういう魅力をもつ女優さんだと思う。
文句なく美しい人だが、わりと変顔もいける。
近作では『ヒロイン失格』がとてもいい。
ひとつの作品の中でのキャラの幅が広い。
そして本作中で桐谷美玲は、キーラ・ナイトレイそっくりの必殺の笑顔を見せてくれるのだ。
そう言えば、名前もちょっと似てるじゃないか。
キーラ・ナイトレイにキーリタニ・ミレイ
・・・そうです。
これが言いたかっただけなのです。
では、今日はこのへんで失礼致します。
どれも巧みな構成と、大胆な映像効果で飽きさせない秀作だったが、特に『つぐない』という作品が気に入った。
ジェネオン・ユニバーサル (2012-04-13)
売り上げランキング: 7,769
売り上げランキング: 7,769
原作はイアン・マキューアンの小説『贖罪』だが、少女の付いた「嘘」が物語の核にある。
嘘なんかが核にあるもんだから、どこまで信じていいかわからないし、案の定後半にデカいどんでん返しが待っている。
こういう物語では、やはりどこか拠り所になるものがないと、感情移入の起点を持てないものだ。
ジョー・ライト監督は、彼の多くの作品に主演しているキーラ・ナイトレイに、その起点を委ねた。
この物語で確かでなければならないのは、何と言ってもセシーリアとロビーの恋だろう。
そしてその恋が確かなものだと観客が感じるのは、セシーリアの表情を見て、ロビーの心が今動いた!と感じられる瞬間があればこそだと思う。
キーラ・ナイトレイという女優は、そういう表情を持っていて、他の映画でもその必殺の表情を多用する。
一言で言ってしまえばそれは「笑顔」なのだが、キーラ・ナイトレイはふたつの笑顔を持っている。
美人顔のまま笑うと本当に綺麗なのだが、口角が綺麗に上がらず、上唇が不自然に上がる感じの笑顔をここぞという時に使うのだ。
その完璧な美貌を一瞬崩してしまうところに逆にハッとさせられてしまう。
それまで本心が見えなかったのに、不意に素顔が覗いたような感じ。
そこがいい。
日本では、桐谷美玲さんが、そういう魅力をもつ女優さんだと思う。
文句なく美しい人だが、わりと変顔もいける。
近作では『ヒロイン失格』がとてもいい。
ひとつの作品の中でのキャラの幅が広い。
そして本作中で桐谷美玲は、キーラ・ナイトレイそっくりの必殺の笑顔を見せてくれるのだ。
そう言えば、名前もちょっと似てるじゃないか。
キーラ・ナイトレイにキーリタニ・ミレイ
・・・そうです。
これが言いたかっただけなのです。
では、今日はこのへんで失礼致します。
2017年1月24日火曜日
『火星の人』と『アポロ13』と『キャプテン・フューチャー:宇宙囚人船の反乱』と
昨年話題になった『火星の人』の原作本が面白かったので、映画も観てみた。
映画には強い既視感があった。
これ『アポロ13』だよね。
似ているところを較べると、『アポロ13』に軍配が上がるのは仕方がない。
あっちは実話だもの。
事故を引き起こす原因に、実話ならではの「可笑しみ」のようなものがある。
1:バッテリーの定格を揃えるために仕様変更された酸素タンクのサーモスタット部分をなぜか変更し忘れる。
2:酸素タンクをモニターする温度計が、なぜか摂氏38度(華氏100度)までしか表示されない仕様になっていた。
3:なぜか酸素タンクを設置する棚が電磁ノイズの原因となり、修理の際にボルトをなぜか一本外し忘れ棚自体が落下、酸素を抜き取るパイプが破損する。
4:なぜか破損に気付かず、訓練のため液体酸素を充填してしまい、抜き取れなくなった酸素を加熱して放出することに。
5:定格の異なるサーモスタットが溶着し、温度計は38度までしか表示しないからヒーターは止めるものがいないまま酸素タンクを摂氏538度まで加熱した。
と、いうような経緯で、宇宙に飛ぶため、再度液体酸素が充填された酸素タンクは、もうそれ自体が爆弾のようなものになっていたのである。
いかにも人間にありそうな、「なぜか」を問えないような小さな見落としの積み重なりがこの重大インシデントを生み出している。
そうそうあるよなー、という感覚が映画『アポロ13』への共感を深めてるんだね。
一方『火星の人』のほうはフィクションだから、原因結果ともにドラマティックに描かれているし、その冒険の純粋な痛快さにおいて比すものはない。
当時よりはるかに一般人の科学的リテラシーも上がっているし、結局最先端の科学も小学校で習った理科の基礎の上に積み上げられているという感じは、実に感動的だ。
そしてこれはもう言われ尽くしていることだけど、何より、諦めないマーク・ワトニー(マット・デイモン)の「明るさ」がいい。
宇宙で一人きりなのに、報告書を書くのにいちいち面白い台詞考えてる。
ちょっとフィリップ・マーロウっぽいよね。
あれも半分強がりだし。
それと『火星の人』を観てて思い出したものがもうひとつある。
我らがキャプテン・フューチャーの『宇宙囚人船の反乱』だ。
これなんかは、人の住まない星に宇宙船が不時着し、直後噴火に巻き込まれて宇宙船を失うという悲劇から無事生還してきちゃう。
キャプテン・フューチャーの「人類の科学の歴史を繰り返せばいいのさ」という脳天気な掛け声にのっかって、囚人たちの手を借りて石器からはじめて原子炉まで作っちゃうという破天荒さだが、これがまた面白いんだなあ。
危機を乗り越えるための団結が功を奏して、ラストに囚人たちも更生しちゃってるし。
キャプテン・フューチャーって人は、ちょくちょく体一つで宇宙空間に置き去りにされるが、常時身につけている原子力電池を動力に、ありあわせの材料で無線機を作ったりして難を逃れるのだが、それはちょっと運が良すぎるでしょ、という感じは拭えない。
その点、この『宇宙囚人船の反乱』はフェアですよ。
『火星の人』にも、このフェアな感覚がある。
頼りになるのは科学だけ、という環境が共通してるからですね。
その意味で、異論はお有りでしょうが、宇宙遭難もののひとつの源流がこの『宇宙囚人船の反乱』で、そのよくできた末裔が『火星の人』ってことでいいですかね。
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン (2016-11-25)
売り上げランキング: 168
売り上げランキング: 168
アンディ・ウィアー
早川書房
売り上げランキング: 25,838
早川書房
売り上げランキング: 25,838
映画には強い既視感があった。
これ『アポロ13』だよね。
NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン (2015-06-24)
売り上げランキング: 2,187
売り上げランキング: 2,187
似ているところを較べると、『アポロ13』に軍配が上がるのは仕方がない。
あっちは実話だもの。
事故を引き起こす原因に、実話ならではの「可笑しみ」のようなものがある。
1:バッテリーの定格を揃えるために仕様変更された酸素タンクのサーモスタット部分をなぜか変更し忘れる。
2:酸素タンクをモニターする温度計が、なぜか摂氏38度(華氏100度)までしか表示されない仕様になっていた。
3:なぜか酸素タンクを設置する棚が電磁ノイズの原因となり、修理の際にボルトをなぜか一本外し忘れ棚自体が落下、酸素を抜き取るパイプが破損する。
4:なぜか破損に気付かず、訓練のため液体酸素を充填してしまい、抜き取れなくなった酸素を加熱して放出することに。
5:定格の異なるサーモスタットが溶着し、温度計は38度までしか表示しないからヒーターは止めるものがいないまま酸素タンクを摂氏538度まで加熱した。
と、いうような経緯で、宇宙に飛ぶため、再度液体酸素が充填された酸素タンクは、もうそれ自体が爆弾のようなものになっていたのである。
いかにも人間にありそうな、「なぜか」を問えないような小さな見落としの積み重なりがこの重大インシデントを生み出している。
そうそうあるよなー、という感覚が映画『アポロ13』への共感を深めてるんだね。
一方『火星の人』のほうはフィクションだから、原因結果ともにドラマティックに描かれているし、その冒険の純粋な痛快さにおいて比すものはない。
当時よりはるかに一般人の科学的リテラシーも上がっているし、結局最先端の科学も小学校で習った理科の基礎の上に積み上げられているという感じは、実に感動的だ。
そしてこれはもう言われ尽くしていることだけど、何より、諦めないマーク・ワトニー(マット・デイモン)の「明るさ」がいい。
宇宙で一人きりなのに、報告書を書くのにいちいち面白い台詞考えてる。
ちょっとフィリップ・マーロウっぽいよね。
あれも半分強がりだし。
それと『火星の人』を観てて思い出したものがもうひとつある。
我らがキャプテン・フューチャーの『宇宙囚人船の反乱』だ。
エドモンド・ハミルトン
東京創元社
売り上げランキング: 557,855
東京創元社
売り上げランキング: 557,855
これなんかは、人の住まない星に宇宙船が不時着し、直後噴火に巻き込まれて宇宙船を失うという悲劇から無事生還してきちゃう。
キャプテン・フューチャーの「人類の科学の歴史を繰り返せばいいのさ」という脳天気な掛け声にのっかって、囚人たちの手を借りて石器からはじめて原子炉まで作っちゃうという破天荒さだが、これがまた面白いんだなあ。
危機を乗り越えるための団結が功を奏して、ラストに囚人たちも更生しちゃってるし。
キャプテン・フューチャーって人は、ちょくちょく体一つで宇宙空間に置き去りにされるが、常時身につけている原子力電池を動力に、ありあわせの材料で無線機を作ったりして難を逃れるのだが、それはちょっと運が良すぎるでしょ、という感じは拭えない。
その点、この『宇宙囚人船の反乱』はフェアですよ。
『火星の人』にも、このフェアな感覚がある。
頼りになるのは科学だけ、という環境が共通してるからですね。
その意味で、異論はお有りでしょうが、宇宙遭難もののひとつの源流がこの『宇宙囚人船の反乱』で、そのよくできた末裔が『火星の人』ってことでいいですかね。
2017年1月23日月曜日
中島みゆき 2015-2016Concert「一会」劇場版を観てきたよ
中島みゆきさんのコンサート「一会」の映像を劇場版にしたものを観てきました。
コンサート映像の前に、リハーサルのドキュメンタリーが30分もあって、素顔のみゆきさんの飾らない感じがなんとも可愛らしくて嬉しかった!
舞台は音楽監督の瀬尾一三さんが組み上げていて、みゆきさんはシンガーとして参加しているという感じ。
むしろ衣装や演出のほうに注力しているように見えました。
コンサート本編では、「糸」も「地上の星」も、「悪女」も「時代」もやらない。
そのとき伝えたいことを軸にコンサートを組み立てているんですね。
沢田研二さんもそういうコンサートをやっていると聞いたことがあります。
セトリは事前に見ていったんですが、ほとんど知らない曲でした。
アルバムも4枚ほど持っているんですが、今回はまったく収録曲はありませんでした。
というわけで、けっこう気合を入れて歌を聴いたんですが、そのせいか不覚にも何度も泣かされてしまいましたよ。
3曲めにやった「ピアニシモ」では、おそらくストリートで歌うシンガーが、恋人らしき人に「ピアニシモ」で歌ってくださいと言われ、それでは道行く人たちの耳に届かない、と不満を覚えています。
しかし、ピアニシモで歌ったおかげで、聴いてくれた人の幽かな声が聴こえた、というくだりで、なぜか涙が・・・
きっと声なき声をあげて、恵まれない場所で日々をがんばっている人たちへの優しいまなざしを感じたせいなのでしょう。
10曲目の「ベッドルーム」では、
と歌われてハッとするが、その後に、
権力を批判するのではない。
あくまでも人としてのありようを問うている。
その視線に僕は強さに裏打ちされた優しさを感じるのです。
12曲めの「友情」では、
そうやって心が揺さぶられぐずぐずになったところに、
14曲目の「命の別名」が直撃するという見事な構成。
そして僕の涙腺はここで完全に崩壊してしまいました。
泣かせればいいというものではありませんが、歌の一つ一つに物語や世界が感じられて、知っている歌を一緒に歌って楽しかった、というコンサートとは違うものでした。
コンサート映像の前に、リハーサルのドキュメンタリーが30分もあって、素顔のみゆきさんの飾らない感じがなんとも可愛らしくて嬉しかった!
舞台は音楽監督の瀬尾一三さんが組み上げていて、みゆきさんはシンガーとして参加しているという感じ。
むしろ衣装や演出のほうに注力しているように見えました。
コンサート本編では、「糸」も「地上の星」も、「悪女」も「時代」もやらない。
そのとき伝えたいことを軸にコンサートを組み立てているんですね。
沢田研二さんもそういうコンサートをやっていると聞いたことがあります。
セトリは事前に見ていったんですが、ほとんど知らない曲でした。
アルバムも4枚ほど持っているんですが、今回はまったく収録曲はありませんでした。
というわけで、けっこう気合を入れて歌を聴いたんですが、そのせいか不覚にも何度も泣かされてしまいましたよ。
3曲めにやった「ピアニシモ」では、おそらくストリートで歌うシンガーが、恋人らしき人に「ピアニシモ」で歌ってくださいと言われ、それでは道行く人たちの耳に届かない、と不満を覚えています。
しかし、ピアニシモで歌ったおかげで、聴いてくれた人の幽かな声が聴こえた、というくだりで、なぜか涙が・・・
きっと声なき声をあげて、恵まれない場所で日々をがんばっている人たちへの優しいまなざしを感じたせいなのでしょう。
10曲目の「ベッドルーム」では、
庇護なき人を選び 踏み石にする技があなたの国にはまさか ないですよね
と歌われてハッとするが、その後に、
あなたがあなたの国の王であるように、他人も他人の国の王であり続けられますようにと歌われる。
権力を批判するのではない。
あくまでも人としてのありようを問うている。
その視線に僕は強さに裏打ちされた優しさを感じるのです。
12曲めの「友情」では、
自由に歩いてゆくのならひとりがいい そのくせ今夜もひとの戸口で眠る 頼れるものはどこにある 頼られるのが嫌いな獣たち 背中にかくした ナイフの意味を問わないことが友情だろうかという歌詞に、何気なく依存し合う薄い繋がりに、こんなにも時間を費やしている今の生活に、すこし疑問を感じたり。
そうやって心が揺さぶられぐずぐずになったところに、
14曲目の「命の別名」が直撃するという見事な構成。
命に付く名前を「心」と呼ぶという一見何気ない歌詞が、発達障害をテーマに作られた曲であるという背景を超えて、過ちを犯しがちな人の心の弱さへの絶対的な赦しとして響くのです。
そして僕の涙腺はここで完全に崩壊してしまいました。
泣かせればいいというものではありませんが、歌の一つ一つに物語や世界が感じられて、知っている歌を一緒に歌って楽しかった、というコンサートとは違うものでした。
登録:
投稿 (Atom)