2014年12月22日月曜日

新・戦争論:池上彰・佐藤優

池上彰さんと佐藤優さんの共著「新・戦争論」が売れている。
お二人とも、非常にフレーズ作りのうまい方だなあと、ご著書を読むたびに感心する。
それは、たとえば飲み屋なんかで時事的な話題になった時に、一言でおっと思わせるような印象的な切り口の言葉だ。

集団的自衛権の話題になった時、「ああ、あれは公明党がうまいことやったよね・・」と言えば、えっえっ、どういうことってなるでしょ?
また、今度のアメリカ大統領選では、ブッシュ弟が出てきて、ヒラリー・クリントンと一騎打ちになりそうで話題になっているが、そういう時も、「湾岸戦争の時のパパ・ブッシュは賢かったのにね・・」といえば、え、うそうそなんで?ってことになって、またしても居酒屋政談のイニシアチブはこっちのものだ。

どちらも答えは本書に書いてある。
本書は「プロっぽい」ものの言い方のカタログなのである。

なかなか理解し難いイスラムに関連する国際紛争も大筋で俯瞰できるし、これも報道などではあまり使われていない印象的な言葉でまとめてくれているので、用語が理解しにくい分、敬遠しがちなこのテーマの格好の入門書としても機能する。


通読して感じることは、二十世紀の戦争はまだ終わっていないんだな、ということだ。
勝者の思惑で引かれた新しい秩序という名の不完全な境界線は、多くの歪を生み出し、イデオロギー対立による東西冷戦という新しい大きな危機の陰にかくれて少しづつ臨界に近づいていった。
そしてその冷戦構造が無くなった今、古い起源の歪が前景化している。
すでに臨界は破れ、いくつもの軍事的衝突が起こっているこの時代は、のちの時代から見ればやはり二十世紀から続いた戦争の世紀であったと評価されるに違いない。

問題は、小国が対象になっているときは根本的な世界の有り様を考え始める機運がおこらないということではないだろうか。
結局のところどう言い繕ろっても、あらゆる紛争は大国同士の代理紛争なのであって、最終的には利害の主体同士の衝突になるだろう。
そうしてはじめて、新しい世界の体制が話し合われるのだろう。
第二次大戦と同じ。

ということは、この轍はその後もまた繰り返されるということか。
人の営みはそれ自体が連続性を持っていて、ある種の慣性にしたがって動いている。
しかしその方向転換の手段が戦争しかないというのではあまりにも寂しい。

新・戦争論 僕らのインテリジェンスの磨き方 (文春新書)
池上 彰 佐藤 優
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2014年12月16日火曜日

その女アレックス:ピエール・ルメートル

年末恒例のミステリ・ランキングで、海外部門の1位を総ナメにした傑作「その女アレックス」ほど書評を書くのが難しい本もない。
叙述トリックでもないのに、読み進めるほどに知らず纏わりついた先入観をひっくり返され続けていくこの感覚がこの物語の醍醐味だとすると、それはまさに「読んだ人にしかわからない」ものだからだ。

要素のひとつひとつに素晴らしい独創性があるわけではないと思う。
それなりに魅力的な人物造形だとは思うが、それだって「ミレニアム」ほどじゃない。
犯罪の残虐性もミステリ史に残る、とまではいかない。
しかし、作者ピエール・ルメートルによって丁寧に編まれた物語が生み出す「読書体験」の極上さはまさに筆舌に尽くしがたいものだ。

というわけでこれ、読むしかないです。
でも、この本に関してだけは「騙されたと思って」という常套句を付け加えることができません。
だって実際1ページ目から騙され続けるのを楽しむ本なのですから。

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2014年12月7日日曜日

ウディ・アレンのロンドン三部作に心が動かなかった理由

ウディ・アレンのロンドン三部作、全作観た。
正直どの作品もピンとこない。

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ウディ・アレンの映画に描かれる恋は、それまでの「生活」という連続体を、突然分断する。いくらなんでも衝動的にすぎて、それはいつも僕の価値観からはみ出している。

確かに「恋」という心理状態そのものは化学反応である。
比喩ではない。
強く心を動かす相貌が、ドーパミンを分泌させ、テストステロン値が上がることで性的欲求を亢進する。
ドーパミンはまたノルアドレナリンを派生し、人をある種の躁状態に導く。
脳内ドーパミン濃度が高まると、セロトニンの濃度が低くなって強迫観念に囚われる。

つまりこれは人のアンコントローラブルな本能だ。
だからこそそれは人間の「恥」の根源となる。

つまり、恋そのものは生理的で反射的なものであり、それが引き起こす社会的な存在としての自分の危うさをどのように飲み込んでいくかに、自分自身の本質が現れるということだ。
映画や文学が、他者と異なっているかもしれない自分自身の本質についての理解を描きたいとする情熱なんだとすると、「恋」そのものだけはその対象になりはしないということだと思う。
ウディ・アレンの描く「恋」は、その衝動の部分だけが描かれ、翻弄もされなければ抗いもしない。

一方この三部作ではそれに加えて、殺人や犯罪をテーマとして取り扱っている。
ウディ・アレンの描く殺人者は自らの行為に過度に逡巡する。
そして捜査する警察は殺人事件だろうとなんだろうと、サラリーマンとして事件を常識的に手順として処理していく。
「恋」の場合とは逆に僕の日常的な価値観の範疇に収まってしまっている、ということだ。

「殺人」なんだよ。
殺すということは、愛するということと密接な関連がある。
なぜなら人は「殺害できる」ものしか愛することができないからだ。
自分を殺害の対象とするものを愛することが出来るだろうか、と自問すればこの言葉の意味がわかるだろう。
犬や猫が僕らを殺しうる能力を持っていたら、または綺麗な花たちが突然僕らに噛み付いてくるようなものだったら、それらを愛することはできないのである。

だから殺人に関して言えば、物理的な障害はさほど大きくない。
むしろ、自分を殺すことなどないだろうと思っていた愛する人が、ある日自分に凶刃を向けるということが倒錯であるからこそ恐怖なのであり、「人を殺していけない」という刷り込まれた道徳観を乗り越えていくほどの事情にこそ描くべき個別性がある。
それは決して、日常の価値観に収まっていてはならないものだと僕は思うのだ。

だからウディ・アレンの映画は人間を何かの器のように描いているように思えてならない。
そのような目で見ると、器としての都市、器としての家、人間関係、自動車、楽器、服装、身のこなし、仕事、それらのすべてがスタイリッシュに描かれている。
悩みさえも。

美しくパッケージされた美意識。
それがウディ・アレン映画から僕が感じるもので、それはいまのところ僕の心を動かさない題材であるように思う。残念ながら。