2014年9月28日日曜日

平行法、その後

以前、「スピーカーを平行法でセッティングしたら、驚きの広さに」という記事を書いたが、今でも一定のアクセスがあり、スピーカー・セッティングに対する関心の高さにビックリしている。
こんなことなら洗剤のCMをパクったふざけたタイトル(驚きの白さ、ね)じゃなくて、もっとまともなの付けとけばよかったと後悔している。

そして僕は現在も「平行法」を実践している。
設置位置は、現実の生活空間との折り合いの中で、少し時間をかけて決定した。



スピーカーを前に出せば出すほど、平行法の効果である、スピーカー後方に現出するサウンドステージが大きくなるのではと思っての試行錯誤の末わかったことは、当たり前のことだが平行法の肝はやはり「意志を持って内振りにしない」ということに尽きた。
距離はご覧のとおりで壁から約1mのところで充分な効果が得られたからだ。

スピーカーのはるか後方に音のステージを感じ取るために、できるだけ正確にスピーカーの軸線を部屋の聴取方向と「平行」にして部屋全体を震わせるよう努める必要がある、ということだと僕は認識している。

その他に変更したところは殆どなく、強いて言えば、レコードプレーヤーのカバーをずっと外した状態にした。これは何かの狙いがあるのではなく、単にヒンジが甘くなって開いた状態で止まらなくなってしまったからに過ぎない。


そういえば、スピーカーの内振り角が0になると、直進性の高い高音域がストレートに届かなくなり、結果的にいつもより音量そのものを大きくする必要が出てくる。
それもかなり。
体感で30%くらいアップさせないとスピーカーの後方に音場が現出してくれないような気がして、日常的なリスニングの音量が大きくなったのも変化のひとつかもしれない。
そこが平行法のもうひとつの重大なポイントで、やはり「音量」というのはセッティングの重要な要素なんだなと思う。


世の中には、こんな苦労をしなくても音場表現にすぐれたスピーカーがあると聞く。
評論家の傅信幸さんがよく仰る「スピーカーが消える」というやつだ。
したがって傅さんがお使いのB&Wノーチラスというスピーカーがその代表選手ということになるが、これは受注生産品。同じローレンス・ディッキー氏が設計したVIVID audio社のGIYAシリーズが現実的な選択肢となるだろう。ただし、数百万円の出費が「現実的」と言える人にとってはだ。
そんな人は滅多にいないだろう。 


先日、旧知のオーディオ店にアナログ用の消耗品を買い足しにいったら、たまたま昔お世話になった人がいて、新しいコンパクトスピーカー借りたから聴いていけと言う。
フォステクスのGX100 Limitedというヤツだった。


こんなことを言うと、極端な物言いに聞こえるかもしれないが、夏に聴いたJBLのDD67000とよく似た音がした。
最近よく聴く、金属やケブラー、またはカーボンナノチューブなどを使った軽くて丈夫なコーンを採用した近代スピーカーの静謐で歪みのないトーンだ。
そして小さな筐体から想像もつかない大きさの音像を結び、しかもその彫りが深い。
聞くと、マグネシウムを使ってご覧のとおりの捻じりが入った独特の形に成形されたものだそうだ。

僕は長いこと東京の狭いマンションに住んでいたから、置けるスピーカーはいつも小型スピーカーで、だからオーディオ店に行っても小さなスピーカーばかり聴かせてもらっていた。 
いろいろ聴かせてもらった中で、一番印象に残っているのは、ドイツALR JORDAN社のEntry Sというスピーカーだ。



これも金属コーンだが、このスピーカーの闊達な鳴りを一度聴いてしまうと、どんなスピーカーの音を聴いても物足りなくなってしまう。
決して自然な鳴りではない。
少し明るく強調された音が、すごいスピードで飛んでくる感じのスピーカーだ。
信じられないのが価格で、ペアで実勢5万円もしない。
同価格帯の国産機とではまったく比較にならないが、他の評判の良い小型機(例えばエラックやKEF、B&Wなど)は、むしろ自然な音が表現されてはいるのだろうとは思う。
しかしエンクロージャーやユニットの小ささが、音像そのものを小さくしてしまうのか、大きな試聴スペースで聴くとなんだか元気のない音に感じてしまうのだ。

フォステクスGX100 Limitedの音は、ALR JORDANのそれとは違ってどこにも誇張がないが、小型機の音のスケールをはるかに超えた大きな音像表現をこなしていた。
そして小さくて軽いスピーカーなので簡単にセッティングを変えられる。だからもちろん平行に置き直してみてもらった。

ああ、やっぱり、と思う広い音場ステージの出現にちょっとうれしくなってしまった。 
何が嬉しいかというと、それは、現代の高性能な小型スピーカーをうまくセッティングすると、狭いリスニングスペースでも広大なサウンドステージを経験できるということを意味するからだ。
それを考えると、このフォステクス、べらぼうに安い、と思う。

同じような製品評をよく見かける小型スピーカーに、KISO AcausticのHB-1というのがあるが、これお値段150万円。対してフォステクスは20万円である。


もちろんHB-1でなければ到達できない領域があるのだろう。そしてその音を得るためにかけていいコストなど、何かを何かで割り算して得るような種類のものではない。
しかし確かにフォステクスの小型スピーカーが提示する音は、音楽というものが人間に与える感銘を空間的に表現する能力からみて必要にして充分以上のものを持っていると僕は思う。




2014年9月24日水曜日

「RENT」:徹頭徹尾、音楽によって描かれた青春群像

10年ほど前に仕事でニューヨークに行ったとき、お客様が現地で「オペラ座の怪人」のチケットを手配してくださって、ブロードウェイに出かけた。
まだ日本では公開されていなかった「RENT」のポスターが街中に貼られていた。
RENTは、おそらくFOR RENT、つまり貸家に関することだろうと見当がついたが、今回DVDで観て「家賃」のことだとわかった。
なるほど。

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ニューヨークのイースト・ヴィレッジで毎月の家賃も払えない若きアーティストたち。
それがこのミュージカルの主人公だ。

で、冒頭からとにかく歌がいちいち凄い。
このミュージカルの台本を書き、すべての楽曲の作詞作曲をしているジョナサン・ラーソンの作り出すメロディは全曲において素晴らしく、それを唄うキャストの歌声も単に上手いとか心がこもっているという次元を超えて、声の力だけでこちらの心がビリビリ痺れてくる。

映画青年マークを演じるアンソニー・ラップの声はまるでエルヴィス・コステロみたいにB級的な魅力を放っていて、それなのに、どの共演者と歌っても見事なハーモニーになる。
見事な歌唱だ。

マークのルームメイトでロックミュージシャンのロジャーを演じるアダム・パスカルの声は、時にスティーブン・タイラーのようにシャウトする。ラーソンは非常に器用な作曲者で、ロジャーのパートはどの楽曲の中でも、そこだけロック調になるように調整されている。ドラッグ中毒から脱したもののHIVに感染した自分を呪うロジャーの孤独な心を、そしてその孤独から救おうとする仲間のメロディとの呼応が、非常に音楽的に表現されているのだ。

ジョアンヌというエリート弁護士のレズビアンを演じるのはトレーシー・トムズ。ブルース・ブラザーズのアレサ・フランクリンを彷彿させる凄い歌声だ。
アフリカン・アメリカンのウルトラ・ソウルフルな彼女の歌声に、マークのちょっと英国っぽい皮肉の利いたハスキーボイスが絡んでいく演出は何度観てもぞくぞくする。


構造上、ストーリーをドライブするのは、カネのないアーティストたちと、彼らが家賃(RENT)を払わずに居座るアパートメントのオーナーとの対立、であるはずだが、冒頭からこの対立は意外なほど深刻化せず、権力者であるはずのオーナーサイドはびっくりするほど消極的な手しか打ってこない。
むしろ彼らを深刻なピンチに追い込むのは「エイズ」である。

検査で陽性と診断されれば、いつ発症するかわからない恐怖に怯える日々がはじまる。
登場人物の半数近くがHIV感染者として描かれているが、実際のところはどうなのだろう。
彼らは「ライフ・サポート」と呼ばれる「集会」に参加している。
車座になって、日々の恐怖や周囲の無理解などについて語り合う。
まず、自分がHIV感染者であることを「認める」ことがなにより重要なのだという。
そして認め合った者同士で語り合うことで少しでもその恐怖を癒やす。

昔読んだ、ローレンス・ブロックのマッド・スカダー・シリーズで、アル中患者が同じように車座になって 「自分はアル中だ」と認める集会の存在を知った。最近も、シュガー・ラッシュというディズニーの子供向け3DCGアニメに、ゲーム内の悪役が車座になって「自分は悪役だ」と認め合う集会が出てきた。
そしてRENTではHIV感染者が、同じような集会を行っている。

なにもしないでいるとどんどん自分の中で膨らんでいく不安を、言葉に置き換えて外部化する、というノウハウなのだろうか。
アパートに閉じこもり発症に怯えながら、それでも人生最高の曲を書くという望みを支えに生きるロジャーと、不安そのものをわかちあいながら日常に織り込んで生きる彼らの生き方のどちらが、より人間らしいのか、僕には判断がつかない。
ただ、その不安に怯える自分を外部化してまでして認めなければ生きていけないような日々が、あくまでも自分らしい存在であろうとし、創造的な日々を生きようとした結果であるというところに何とも言えない虚しさを感じてしまうのだ。

彼らの精神的支柱であったエンジェルというゲイがエイズを発症、ほどなく亡くなって、物語は終息に向かう。
ラストシーンで映像作家志望のマークの渾身の映画と、ロジャーがとうとう書いた<最後の>一曲が披露されるが、これがもうひとつ心動かされない出来なのは何故なのか。
思うに、この楽劇を書いたジョナサン・ラーソン自身が、アメリカン・ロック的なサウンドにシンパシーを感じていなかったのではないか。
振り返れば、ロジャーの歌のシーンはテイストの違う歌に<異物>として挿入されている感覚をおぼえる。

ラーソンは、オペラで言う、ライトモチーフのように、ニューヨークという街の多様さを音楽の<交わらなさ>で表現しようとしているのではないだろうか。
そしてエンドロールが始まったとき、全体としてこの楽劇を貫く音楽の記憶が、まるで織り上げられたシンフォニーのように響いてくる。
徹頭徹尾、音楽によって描かれた青春群像。それがこのRENTという作品だと思う。