その人の嗜好にあった本を、これまでの読書歴から店主が勘案して一万円分の本をセレクトして送ってくれるというサーヴィス。
店主のブログなどを読むにつけ、驚かせてくれそうで気になるが、自分で読みたいと思う本で僕の時間は精一杯だ。
逆にこの本ならすべての人に読んで欲しい、と思う本ならある。
でも書店さんのように責任はとれないからブログに書く程度にしておこう。
今なら断然この本。
大野晋先生の「日本語と私」だ。
国語学者が著した、学問としての「日本語」との格闘の記録。
だが、ここにはあらゆる働く人への示唆が満ちている。
夏目漱石の小説からすべての「は」と「が」の用法を書き抜いて、はじめて主格の助詞の用法を知る。
いくつかの時代にまたがる古い辞書をくまなくひいて、はじめて「お」と「を」の仮名遣いの相違の真意を識る。
コソ・・メの用例を知りうるだけ集めて吟味をして、万葉集の句に異解を示す。
誰もがハンナ・アーレントの言う「イェルサレムのアイヒマン」になる可能性がある。
そうならないための本当の確信とは、このような徹底した作業によってしか生まれないということだろう。
その大野先生から見れば、現代の国語教育はまことに不本意なものだろう。
古今東西の名作を2~3ページに細切れにし、「犬君が雀を逃した」という部分を「源氏物語」だと言って教える。こんな非道いことはないと嘆く。
このような形ばかりの平等主義を教育に導入したものこそ「アイヒマン」の精神なのだと感じられる。
では私学による個性的な教育に期待しようということになるが、そうなると経済格差が教育成果にまで及び、さらなる格差の拡大につながる。
北欧のように、教材は教員の自由という行き方がいいのではないかという思いが募るところだ。
教育改革に話が及べば、本書にも終戦以降の教育改革の歴史が記されており興味深い。
こうある。
戦後は、国語教育に、生活経験学習という行き方がアメリカから輸入された。文部省はそれを新教育と呼んでいた。従来の教育を暗記偏重、生活から遊離した知識の習得と非難し、実生活を通じた生きた知識を身につけなくてはいけないととなえた。
今さかんに議論されている大学入試の改革でも聞かれる言葉だ。
いつの時代も、それまでの教育は「知識偏重」と見えるのである。
ということはだ。
要するに、やはり教育とはどこまでいっても「暗記による知識の習得」であるということなのだろう。
新しい時代への対応のために、それまでの教育を批判しなくてはならなくなった時、ほかに言いようがないから「知識偏重」と言っているだけのことだ。
一見クイズのように見える問題が入試に出たとして、問うているものの本質がその解答限りのものであるという考え方は少し偏狭なのではないか。
もし大学入試改革が、ネットでの軽薄な言説のように、部分を切り取って批判を積む手法で行われるとしたら、戦後から今までずっとやってきた迷い道と同じだ。
こんなときこそ、大野晋先生が日本語と格闘するときにお見せになる、あくまでも真摯に事実と仮説を行き来する方法が採られるといいと思っている。
そして「働く」ということのすべてのシーンで、この真摯さが必要とされているはずだ。
その意味で、あらゆる人におすすめしたいと思う本なのである。